伊藤 茂 (元海自海将補 ・ 兵71期)
第十七駆逐隊
ここで第十七駆逐隊について簡単に紹介する。
当時は第十戦隊 (内容は水雷戦隊と同一で、軽巡 「阿賀野」 を旗艦とし、第四・十六・十七駆逐隊の 「陽炎」 型駆逐艦12隻と、第十駆逐隊の 「夕雲」 型4隻の計17隻で編成。 当時いずれも健在) に所属し、隊内は 「谷風」 「浦風」 「浜風」 「磯風」 の4隻からなり、ハワイ海戦以来の諸海戦に機動部隊の警戒部隊として参加、その後、17年後半は概ねソロモン方面において作戦を続けていた。
初めての天測
私は 「浦風」 航海士兼第二分隊士となり、戦闘配置として1番煙突両側の25ミリ3連装機銃2基の指揮官を命ぜられた。
なお、航海科は三分隊であったが、先任将校の水雷長兼第二分隊長小山中尉 (大六、兵67期) が、私を自分の分隊士として何かと教育してやろうとの好意で、二分隊士としたらしい。
当時、ショートランド泊地には20隻の駆逐艦が、昼間は敵機の来襲に備えて漂泊し、夜間は投錨待機していた。
私は乗艦当日、夕闇迫る頃旗甲板に上ってあたりを眺めていると、先任将校から 「航海士は天測をどのくらいやったか」 と問われ、「学校で習って柱島の実習でやった程度です」 と答えたところ、「今からやってみるか」 と言われた。
そのとき天測は私にとっては大仕事で、簡単にやれるものではなかったので、1時間以上もかかって艦位を報告したわけであるが、最前線にきて一人になった感傷もこれでいっぺんに吹きとばされ、ぼんやりしている暇などないと現実の厳しさにまず目を覚まされた。
なお、この先任将校には折にふれ、あたたかい御指導をいただいたもので感謝にたえず、その後潜水艦で戦死された (呂号116潜、水雷長、大尉 昭和18年5月アドミラルティ諸島方面作戦中に消息不明、戦死認定後少佐) のは残念に思えてならない。
ガダルカナル撤退作戦
乗艦後3日目の2月1日から3回にわたり、ガダルカナル島の撤退作戦が行われた。

( ショートランドとガダルカナルの位置関係 Google Earth より加工 )
20隻の駆逐艦が2列の縦陣でソロモンの海を焉進し、夜半ガ島北部着、エスペランス岬付近から陸軍及び陸戦隊を収容して、計約1万余名をショートランドへ撤収したものであり、計画の段階では駆逐艦の半数はやられるだろうと言われていたそうであるが、「巻雲」 が触雷沈没したほか、2〜3隻中・小破した程度で、予想外の成功を収めた。
なお、当時の戦闘状況の一部については、当時の砲術長井上中尉 (龍昇、兵68期) が、先年呉総監時代 (昭和49年7月〜51年11月) に書いておられたので読まれた人も多かろうと思う。
この収容作業においては、時々敵魚雷艇の襲撃を受けながらも、夜陰に乗じて粛々と行われ、夜が明けてみると全く骨と皮の陸兵が、甲板の上はもちろん、風呂場から便所まで足の踏み場もないほど一杯であり、ひとかかえもありそうな握り飯を両手に乗せてほおばっていたが、ほんとに御苦労様と思った。
さて、私にとってはこれがいわゆる初陣であり、2基の機銃に 「あの飛行機」 「あれだ」 と次々に目標を指示しながらも、突込んでくる敵機の機銃掃射の弾が当たらねばいいがという思いがその都度心をかすめたことと、撃墜され落下傘降下した米パイロットが、ゴム筏の中で手を振っていたとき、そのすぐそばを高速で通り抜けながら、今は無力になった彼を本艦も、そして後続する各艦も撃たねばいいがとしきりに念じたことが、今なお心に残っている。
なお、これらに関連した所見については後ほど改めて申し述べることとする。
(続く)
(参考) : ガ島撤収作戦における 「浦風」 を含む第17駆逐隊の行動については、「 第17駆逐隊戦闘詳報第2号 「ケ」 号作戦 」 (アジ歴 リファレンスコード : C08030146300 でも公開されています) をご参照ください。

昭和18年2月1日から8日にかけての3次にわたる作戦行動は、第1次が往復とも中央航路、第2次が往路は中央航路、復路が南方迂回航路 (下図では何故か往復とも南方航路となっています)、警戒隊としての第3次は往路が南方航路、復路が中央航路でした。

そして第1次及び第2次における4隻による陸軍兵士等の収容員数は次表のとおりで、実に合計5,867名に上っています。
| 艦 別 | 谷 風 | 浦 風 | 浜 風 | 磯 風 | 合 計 |
| 第 1 次 (2/1〜2) | 408 | 771 | 807 | 1,075 | 3,061 |
| 第 2 次 (2/4〜5) | 208 | 790 | 634 | 1,174 | 2,806 |
| 総 計 | 5,867 | ||||
なおこれらの陸軍兵士等の揚陸場所は、当回想録でも17駆隊の戦闘詳報でも、第1次及び第2次ともショートランド島 (の北岸) となっていますが、戦史叢書の 『 南東方面海軍作戦 <2> −ガ島撤収まで− 』 や 『 太平洋陸軍作戦 <2> −ガダルカナル・ブナ作戦− 』 などではブーゲンビル島のエレベンタとされています。
このブーゲンビル島の 「エレベンタ」 という場所は手持ちの地図や海図にはありませんし、戦史叢書や旧陸軍関係史料にも無いようで正確な位置や収容施設などは不詳です。 また、17躯隊の揚陸場所との関係 (作戦の都合上、取り敢えずショートランド島に揚陸し、後から舟艇などで移動?) も不明です。 ただし、ブイン沖のモイスル湾 (Moisuru Bay) に 「エレベンタ島」 (Erventa Isle) という2つ続きの小島があり、ここの北側は駆逐艦の錨地に使用していますが ・・・・ ?

( Erventa Isle Google Earth より加工 )
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