2019年08月01日

兵学校の江田島移転と 「東京丸」


『世界の艦船』 9月号に掲載された拙稿 『呉鎮守府開設130周年』 記事の補遺3つ目です。

拙稿記事では呉鎮守府だけでなく、江田島の海軍兵学校にも触れておりますので、こちらについて少し補足を。


ご存じのとおり、東京築地に置かれていた海軍兵学校は、明治22年の呉鎮守府開設に先立つ21年8月1日に江田島に移転、同月15日に同地で開庁しました。

この江田島への移転については、将来の海軍将校たる青年達の教育の場として築地はその環境的に問題が多いとして議論がなされ、明治16年の第2海軍区の軍港の適地調査の際にその候補の一つとしてあげられていたものの、何分にも離島であることから鎮守府設置の地としては採用されませんでしたが、却ってこの環境が海軍将校生徒教育の場として最適なものとして選ばれました。

Naval_Academy_Etajima_01_s.JPG
( 海軍兵学校建築工事前の江田島 )

このため明治19年5月に呉に鎮守府設置が決まった翌6月には兵学校の江田島移転が決定され、これによって直ちに測量と用地買収が行われた後、早くも建設工事が始まりました。

そして明治21年5月末には敷地及び幾つかの建物及び教官・職員官舎などが概成したことにより、上記のように8月に移転となったわけです。

しかしながら、この時にはまだ肝心な生徒館などは完成しておらず、このため水兵屯船となっていた 「東京丸」 に所要の改造を加えた上でこれを回航、現在の表桟橋から陸奥砲塔付近にかけての海岸に繋留してこれを 「生徒学習船」 としたのです。

Naval_Academy_Etajima_02_s.JPG
( 移転直後の海軍兵学校 左端が生徒学習船 「東京丸」 )

この 「生徒学習船」 の用途は、まだ未完成であった生徒及び指導教官用の居住及び厨房、生徒の温習室、講堂、教官室などの施設の代用としてです。

下の写真は同船を右前方の陸岸から撮影した割とよく知られた有名なものです。

Tokyo-maru_M21_01_s.JPG

もう一つは同じ時期に同船の右後方の陸岸から撮影したもので、こちらは珍しい写真と思います。

Tokyo-maru_M21_02_s.JPG

この 「東京丸」 ですが、『世界の艦船』 の拙稿記事の注釈にも述べましたように、元々は1864年 (元治元年) に米国で建造された蒸気推進の木造船 「ニューヨーク号」 で、明治7年に三菱商会が購入の上これを 「東京丸」 と改名して三菱蒸気船会社が運航したもので、旧陸軍及び海軍も人員及び物資などの輸送に利用しました。

その後この 「東京丸」 は三菱会社所属となっていたものを、明治18年に旧海軍がこれを水兵屯船として購入、エンジン等の撤去や諸室の改修などを行いましたが、20年になってこれを兵学校の生徒学習船とすることが決定され、神戸の小野浜造船所で所要の改装工事を行った後、翌21年2月に江田島まで 「摩耶」 により曳航し、兵学校敷地の海岸近くに並行に錨で四方を固めて繋留しました。 陸上との交通には現在の表桟橋近くに浮き桟橋が設けられています。

Tokyo-maru_M21_03_s.JPG
(『海軍兵学校沿革 巻2』より 「東京丸」 の船内配置図 )

陸上に生徒館などが新築されるまでとは言いながら、当時既に船齢24年の老朽木造船であり、諸室が改修されていたとはいえ、採光不足や船底の漏水を初めとしてこの種の用途としては劣悪の環境であったとも言われています。

そして明治26年6月15日に生徒館等が完成して全てをこれらの陸上施設に移し、同7月3日には 「東京丸」 は早くも売却のために呉鎮守府に引き渡されています。


余談ですが、『坂の上の雲』 でも有名な廣瀬武夫は江田島移転翌年の明治22年4月22日に、秋山真之は23年7月17日に卒業していますので、両名とも江田島では卒業までこの 「東京丸」 で起居しており、後に新築される赤レンガの生徒館では全く過ごしたことがないことになります (^_^)


そこで疑問が出ます。

築地時代には、明治5年に海軍兵学校の前身である海軍兵学寮が元の海軍操練所から引き継いだ木造平屋の建物から、新築の洋風二階建ての木造の学舎に移転し、ここで明治9年には海軍兵学校と改称されました。

Naval_Academy_Tsukiji_01_s.JPG
( 海軍操練所 )

Naval_Academy_Tsukiji_02_s.JPG
( 明治5年新築された海軍兵学寮学舎 )

しかしながらこの新築木造学舎は何故か10年ほどで老朽化したとされ、このため明治16年隣接地に東京で最初、かつ東洋一の規模と謳われた二階建て洋風煉瓦造りの生徒館が新築されてここに移ったのです。

Naval_Academy_Tsukiji_03_s.JPG
( 明治16年新築された新生徒館 )

したがって、明治21年にはこの新生徒館はまだ築5年に過ぎなかったわけで、如何に生徒教育の環境のためとは言いながら、わざわざ急いで江田島に移転し、しかも老朽化した環境劣悪な 「東京丸」 を使用せずとも、江田島での生徒館など全ての施設の完成を待ってからでも決して遅くはなかったはずです。

ではなぜ江田島移転を急いだのか?

これについては、明文化された史料が残されていませんが ・・・・

明治20年に海相の西郷従道が欧米視察途中に英海軍大臣との間でジョン・イングルスを招聘して日本海軍で将校に対する高等教育を行う話しとなり、これにより海軍大学校の創設が持ち上がったのです。

しかしながら、当時はこの新設する大学校のための施設を新たに求めることが困難であったことから、江田島移転が決まっていた海軍兵学校の施設をこれに当てることとしたため、その移転が早められたのではないかと考えられます。

実際のところ、『世界の艦船』 の拙稿でも書きましたように、明治21年7月14日には 「海軍大学校官制」 が、続いて同17日には 「海軍大学校條例」 が制定され、8月1日兵学校の江田島移転直後の15日にはこの築5年の新生徒館をそのまま使用して開校準備に入り、同28日に正式に開庁しました。

そして翌9月には第1期の学生を募集して11月にはその選抜試験が行われ、合格者は11月15日には早くも課程が開始(実際の授業は26日から)されるという、実に段取りの良さだったのです。

早い話が、海軍大学校新設のために兵学校は追い出されたとも (^_^;

-------------------------------------------------------------

前 : 「 呉鎮守府の司令部壕 」


posted by 桜と錨 at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/186349593
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック