今年もこの日が巡ってきました。 今日は阪神淡路大震災から23年目です。
あの日の朝、呉の官舎で寝ていた私を隣にいた家内が揺り起こしてくれて 「おと〜さん、今地震があったよ」 と。
直ぐにテレビを点けましたが、関西で大きな地震が有ったとの事以外は状況は全く解らず。 「ちょっと様子を見てくる」 と言って呉地方総監部に出かけましたが、そのまま48日間家に戻らないとはその時は思いもしませんでした。
この48日間のことは本家サイトの 「砲術への思い」 と題して公開している私の回想記の中でも、防衛部第3幕僚室長をしていた当時のことを書いておりますので、詳細についてはそちらをご覧いただきたいと思います。
加藤総監を指揮官として現地に進出した海上自衛隊災害派遣部隊は、一人一人が出来る限りの全力を尽くしたと思いますし、また各指揮官始め全隊員が自己の判断で積極的に適時適切に動いてくれました。
しかしながら、今でも心に残ることは “もっと何か出来たのでは?” “もっと一人でも多くの方の命を救えたのではないか?” ということです。
その一方で、言い訳にはなりますが、当時としての法的な制限・制約などもあり、災害派遣部隊としてはあれが精一杯で、それ以上は動けなかったことも確かです。
もちろん現地判断でそれ以上のことも色々しましたが、後になれば結果オーライということで ・・・・
今でも目に焼き付いて離れないのは、現地に進出して壊れかけた阪神基地隊庁舎になんとか司令部を設定したあと、暗くなってから打ち合わせのために車で神戸市庁舎に向かう途中に見えたものは、総ての明かりが消えて真っ暗な中、あちこちの建物などが倒壊し、人声も人の気配もなく、道も地面も雪解けのように液状化現象でドロドロになってる、あの何とも言いようのない無惨な街の姿です。
そして暫くしてからの昼間、これも連絡調整のために車から見える途中の街並みは、ポツンポツンと鉄筋の建物が残る以外は木造の家屋は総て倒壊したまま手つかずの状態の中、所々に 「まだここの中に一人取り残されています」 という看板が建てられてたことです。
福島の原発のことを除いたとしても、東日本大震災は被害規模としてはこの阪神淡路大震災より大きなものがありますが、近代的な大都市に発生した大災害ということではまた別のものがあります。
23年目、神戸の街並みは既に見事なまでに復興し元の活況を取り戻しておりますが、被害に遭われた方々の心の傷が癒されることはまだまだないと思います。
そして、震災で亡くなられた多くの方々のご冥福を改めてお祈りいたします。 合掌