2016年09月10日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続)


始めに 「武蔵」 沈没からの生存者の状況について少し整理してみましょう。

まず沈没からコレヒドール島到着までです。

10月24日
  1918 「武蔵」 沈没 (「清霜」 の記録では1940、「武蔵」 の記録では1935)
  1932 「浜風」 救助作業開始
  2026 「清霜」 救助作業開始 (2013 第2カッター降下)

10月25日
  0057 「清霜」 救助作業終了
  0120 「浜風」 救助作業終了

この時に収容された 「武蔵」 の生存者は両艦の戦闘詳報・戦時日誌などにより次のとおりとされています。

  「浜風」 : 准士官以上44名、下士官兵860名、計904名
  「清霜」 : 准士官以上31名、下士官兵468名 計499名
  合計  : 准士官以上75名、下士官兵1328名、計1403名

ただし、「武蔵」 は沈没した 「摩耶」 の乗員を収容しており、被害が酷くなった1830頃 「島風」 を横付けして移乗させていますが、応急関係員などはそのままとなっておりますので、沈没時に救助された人員にこれらの生存者が含まれていたかどうかは不明です。

  0140 「浜風」 コロン湾 (注1) に向かう
  0214 「清霜」 コロン湾に向かう

colon_bay_map_01_mod_s.jpg
( シブヤン海、コロン湾、マニラの位置関係 元画像 : Google Map より )

両駆逐艦長は協議の上、取り敢えず 「武蔵」 が損傷時に向かっていたコロン湾にそのまま向かい、同湾で上級司令部からの指示を待つことにしました。

その途中で第1遊撃部隊指揮官から両艦宛に次の命令が届きます。

1YB機密第242138番電
武蔵乗員を 「マニラ」 に輸送したる後 「コロン」 湾に回航妙高艦長の指揮を受け同艦及び日栄丸の警衛に任ずべし

この電報がいつ両艦に着信したのかは不明ですが、両艦はそのまま引き続きコロン湾に向かいます。

  1306 「清霜」 コロン湾着
  1455 「浜風」 コロン湾着

  1830 両艦コロン湾発、マニラに向かう

このコロン湾仮泊中に重傷者を在泊中の他艦に移したとするものもありますが、記録などはありませんので詳細は不明です。

コロン湾出港直前に 「浜風」 は第3南遣艦隊及び第31特別根拠地隊 (以下 「31特根」 という) へ次の電報を発信しています。

hamakaze_10251800den.jpg
( 「浜風」 の発信電報内容 元画像 : 防衛研究所所蔵資料より )

ここに示す 「武蔵」 生存者数は、准士官以上80名、下士官兵1343名の計1423名 となっており、先の救助作業直後の数とは多少異なっておりますが、コロン湾仮泊中に再確認した結果であり、少なくとも 「武蔵」 沈没時に救助した人員数 (便乗者等を含む) としてはこの値が最も正しいものと考えられます。 (注2)

10月26日
  0902 「浜風」 キャビテ軍港桟橋着
  0935 「清霜」 「武蔵」 乗員を 「浜風」 に移乗させた後マニラ港桟橋に横付けし補給
  1200 「浜風」 キャビテ発
  1303 「浜風」 コレヒドール着 「武蔵」 乗員退艦
  1446 「浜風」 コレヒドール発

先の電報にあった要収容負傷者についてはキャビテにおいて海軍病院に送られたのかどうかは不明です。

ここまでが 「武蔵」 の生存者がコレヒドール島に到着するまでの状況の概要です。

これを見る限りでは、「武蔵」 の生存者の収容先がコレヒドール島となったことは、両艦がマニラに到着するまでは、両艦はもちろん第1遊撃部隊司令部も知らなかったと言えるでしょう。

したがって、同島への収容は第3南遣艦隊あるいは31特根の都合による判断と考えるのが自然です。

Corregidor_map_01_mod_s.jpg
( 元画像 : 1944年の米軍地図より )

Corregidor_map_02_s.jpg
( コレヒドール島 元画像 : 1944年の米軍地図より )

ではなぜコレヒドール島だったのか?

これはお考えいただければすぐお判りのように、急に1400名もの人員を収容できるような施設はマニラの31特根といえどもそうそうあるわけではありません。 しかも後でお話しするように、「武蔵」 生存者1400名は取り敢えずは分散配置せずに一纏めにしておく必要があります。

当時はマニラ及びその周辺に海軍部隊の収容可能な施設はいくつかありましたが、マニラ防衛のために送り込まれる部隊はもちろん、多数の沈没艦船の乗員が所在しており、一挙に1400名もの人員を収容できる施設はそう簡単には確保できなかったと考えられます。

その一方で、コレヒドール島には19年9月までは31特根の僅かな部隊が配置されていたにすぎませんでしたが、9月に震洋隊1隊が配置されたのを皮切りとし、以後震洋隊、防空隊、設営隊などが次々と送り込まれることとなり、このための施設の増設が急ピッチで進められていました。 また、マニラ湾港防備強化のための更なる人員増加の必要性も見込まれていました。

このため 「武蔵」 生存者1400名がマニラに到着した時、彼等の処遇が決まるまでの取り敢えずの仮施設としても、コレヒドール島は当時最適な選択肢であったと考えられます。


さて次がその後の状況になります。

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(注1) : コロン湾 (Colon Bay) はパラワン諸島の北東端にあるブサンガ (Busuanga)、クリオン (Culion) 及びコロン (Colon) の3つの島で囲まれる天然の良港です。

ここコロン湾は連合艦隊の泊地・作業地として海軍部内ではよく知られたところで、この捷号作戦時でも使用していました。 実際、「武蔵」 生存者を運んだ 「浜風」 「清霜」 は再補給の後、損傷艦艇の応急修理のための派遣修理班90名をキャビテ軍港からこのコロン湾まで運んでおります。

colon_Bay_map_02_mod_s.jpg
( 元画像 : 1984年のONCシリーズより )

colon_Bay_map_03_mod_s.jpg
( 元画像 : 1960年の米軍地図より )


(注2) : 「武蔵」 の戦闘詳報によると、救助した 「摩耶」 の乗員を除き

   出撃時 : 准士官以上 112名 (その他便乗者等 7名)
        下士官兵・傭人 2287名 (その他便乗者等 11名)
        計  2399名 (その他便乗者等 18名)
   生存者 : 准士官以上 73名 (その他便乗者等 4名 3名は記録無し)
        下士官兵・傭人 1303名 (その他便乗者など 11名)
        計 1376名 (その他便乗者等 15名 3名は記録無し)

とされており、「浜風」 「清霜」 2隻による救助記録の合計より若干少なくなっております。

「武蔵」 戦闘詳報はコレヒドール島上陸以降、後になって書かれておりますので、もしかするとコロン湾あるいはマニラで移したとされる重傷者の数が入っていないのかとも考えられます。

また 「武蔵」 戦闘詳報の戦闘経過の中で 「島風」 への 「摩耶」 乗員移載の際に応急関係員は残したとされていますが、人員表の中にはこの数がありません。

したがって、便乗者等を除く 「武蔵」 乗員の正確な生存者の数については、結局のところ今日もなお確定的なものは無いと言えるでしょう。

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前 : 「武蔵」 生存者は隔離された?

次 : 「武蔵」 生存者は隔離された? (続2)

posted by 桜と錨 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと
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