2015年05月14日

大空への追想 (259)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 あとがき

51年10月16日、終戦後32年目の秋、海軍飛行艇隊の最後の基地となった詫間 (香川県) において、第一回海軍飛行艇隊搭乗員戦没者慰霊祭が海上自衛隊協力のもとに、盛大に行われた。

かつての若驚たちも、今は五十の齢を過ぎていた。 30余年振りの再会に生存者達は抱き合って涙にくれたものである。

この慰霊祭に、古川、天本両君が出席して万座の注目を浴びた。 これがもとで、奇跡的に生還した4人の連絡がとれた。

52年10月、神戸湊川神社における第二回慰霊祭の席上、高原、平山、古川、天本の4名が全員元気な姿で会合できた。

彼らは内地帰還後も、あの4年間の苦難の行動については、一切伏せていたのである。 それは語りたくないというよりも、話したところで信ずる者はいないと考えていたからである。

戦傷の後遺症に苦しみながら、自らを鞭打って第二の人生を雄々しく踏み出し、現在は各自社会的にも要職について立派に過ごしている。

この度、古川、高原両君から、私のもとに克明な当時の手記を送ってくれた。 この手記を整理して纏めているうちに、当時東港航空隊分隊長として共に戦い、激戦の渦中に、生死を度外視して飛び込んでゆくことのみに生甲斐を感じていた私自身の頭の中に、いろいろな当時の思い出がよみがえって来た。

戦争とはいうものの、このクルー達に対して、誠に申し訳なかったと思う気持ちで一杯である。

既述のとおり、連合軍のチモール島兵力増勢の企図は、東港空三浦機の貴い犠牲により、完全に挫折したのである。

この翌日 (17年2月16日) 二十一航戦は、中攻27機、大艇9機をもって三浦機の発見した船団を空襲し、大損害を与え、辛うじて難を免がれダーウィンに逃げ込んだ一部兵力も、2月19日に行われた我が海軍のポートダーウィソ大空襲で藻屑と消えてしまった。

私は当日 (2月16日) の空襲において索敵隊指揮官を買って出た。 三浦機の弔い合戦でもあった。

幸いにもチモール島南東250浬の洋上で敵船団を捕捉し、攻撃隊を誘導できたのである。 今にして思えば、あの時戦場からそれほど遠くない洋上に、6名のクルーが苦しい漂流を続けていたのである。

当時の状況から、三浦機は自爆と断定せざるを得なかったことがこのような悲劇を生んだのである。 不時着の公算が10パーセソトでも予測されていたなら、捜索網にかかったであろう。

戦争の悪戯と片付けるには余りにも残酷なことである。

死の空中戦において愛機を失ったことに対する海軍搭乗員の責任感、生きて虜囚の辱かしめを受けずとする当時の軍人の激しい精神をこの手記の中から汲みとっていただければ幸甚である。 それに対する批判は読者の自由である。

「 愛国の精神は誰にも負けず、人一倍堅持しているつもりである。 国防軍の保持と軍国主義の区別が分からんような連中とは根本的に違っていると自覚している。 余生を注ぎ込んで日本の発展のため微力を尽くしてゆきたい。」

と語る奇跡の生還者4名の言葉をつけ加えてこの章を閉じる次第である。
(続く)

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