2015年05月11日

大空への追想 (258)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 終戦、帰国

カウラの悪夢から覚めて、負傷者はカウラ、へイ両収容所の協同病院に入院のうえ治療を受けていた。

沖本兵曹を失って遂に4名が残されたが、彼らはあくまで軍属を通して来ていたのである。

昭和20年に入り、終戦も知ることができた。 いよいよ不安は募る一方で、悶々としながらも、彼らは皆捕虜として働きながら毎日を希望もなく過ごしていたのである。

20年の暮れ迫った頃、日本に送還の話が盛り上がってきた。 こうなると捕虜の身が一段と苦しくなり、帰国の喜び等少しも湧いてこなかった。


21年1月、復員船 「第一大海丸」 がシドニーに向け日本を出港したことを知らされた。

その頃、日本人居留民達の間から次のような深刻な意見が出ていた。

「 日本は敗戦により、台湾、樺太、朝鮮が連合軍の手によって没収され、国土は大幅に減少してしまった。 そこに海外から何百万という日本人が帰国すれば、食糧難はもとより、あらゆる苦難が押し寄せ、国民全体が暗黒の世界を彷徨うことになるだろう。

そこで居留民としては、日本の国力が回復するまで、現在地に留まって働くことができるようオーストラリア首相に嘆顧することとしたい。 ついては軍人捕虜の皆さんはどうするか。」

これに対して軍人側で一決した意見は、

「 我々は捕虜であり、一般居留民とは遣う。 日本本土における負傷者のために、輸血源の役をして死ぬまで献血を続け、せめてもの恩返しをしよう。」

というもので、居留民とともに、この決議事項を携えて濠州政府に嘆願することになった。

しかし、濠州政府の回答は、

「 諸君の気持ちは察し得るが、居留民、捕虜の送還については既に連合軍命令が出されているので、濠州政府としてもこれに従わざるを得ない。」

というもので、シドニー市長自ら政府代表として説得に来られた。 これに対しては一同いかんともし難く、同意せざるを得なかったのである。

濠州政府は日本送還にあたり、捕虜に対し、各自バター、チーズ、砂糖などをふんだんに支給したほか、1500人分の糧食を準備する等、帰国に際しては実に暖かい配慮をしてくれた。


21年3月3日、「第一大海丸」 (一万トン) に乗船し、4年間にわたる濠州捕虜生活に終わりを告げ、シドニーを出港し故国日本に向かったのである。

出港後、ハーバーブリッジをくぐり抜け、コーラルシーに出てから、海軍特殊潜航艇が突入した地点において、一同船上から敬虔なる祈りを捧げて冥福を祈り、牛歩航海を続けながら一か月後の21年4月3日、浦賀に上陸したのである。

振り返ってみれば、太平洋戦争開戦後、僅か100日間の御奉公をしたのみで、17年2月15日、燃える闘魂を剥き出しに奮戦しながら、たった一機の戦闘機に叩き落とされた無念さがいまだに拭い去ることができないのである。

漂流、彷徨、捕虜、そしてあの集団自殺行、日本軍人として捕虜の汚名から逃がれんがため、あらゆる手段を尽くしながら過ごした4年間の苦闘 − それは現代人から見れば、なんと馬鹿げたことをしたんだろうと一笑にふされるだろうが− 死を大前提としていた当時の日本軍人の教育環境からすれば、当然やらねばならないことなのである。

“ 生きて虜囚の唇かしめを受けず、死して罪科の汚名を残す勿れ ” と心の奥底に叩き込まれた軍人の教えは、現在でも拭い去ることができないと古川兵曹は言い切っている。
(続く)

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