2015年05月03日

大空への追想 (256)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 カウラ収容所の集団自殺行

この事件については、日本軍捕虜達の暴動とか、脱走とかの噂が流れているが、いずれも真相には程遠いものである。 捕虜の汚名から逃れようとしての敵弾による集団自殺行為であると見るのが妥当であろう。

カウラ収容所で生活していた約1千名の日本陸海軍の将兵が、日本軍人として、捕虜の汚名に堪えきれず、敵弾に倒れることによって軍人としての最期を全うしようとする異常心理から出発した行為であった。 (現存4名のクルーの一致した意見である)

敵側を挑発して、この身を射殺させるために演じた集団行動であり、始めから敵を攻撃したり、脱走しようなどとは全く考えていなかった。

本行動を起こすについては、いくつかの原因があった。

第一は、日本軍人には捕虜ということはあり得ないという観念論である。 たとえ不可抗力の場合でも捕虜となれば死以外にないという根強い観念をもっていた。

第二は、流言飛語による心理的影響である。 当時収容所にはいろいろな人間が集まっていた。 勝ち戦の場面で捕らわれの身となり憤懣やる方ない者、既に闘志を失い敗戦を意識してすっかり観念していた者等種々雑多であった。

たまたま捕虜の中にいた零戦搭乗員が、次ぎのような話をしていた。

「 開戦の時、被弾のため比島に不時着し、捕虜になった中攻隊の1クルーがあった。 進攻して来た陸軍の手で幸いにも救出され、原隊に帰ることができた。

しかし既に自爆と認定され、部隊の名簿からも抹殺されていた。 宿舎も隔離され、しかも危険度の高い攻撃行には必ず囮機としてかり出された。 しかしこの精強なクルーは、その都度見事な戦果をあげて生還していたのである。

ポートモレスビー爆撃の際、遂に強制的に自爆させられた。」

こんな非人道的な行為が海軍航空隊に実存したことは考えられない。 真相の程は不明であるが、捕虜の身に泣く人々に与えた心理的影響は極めて大きいものがあった。

第三は、当時日本は捕虜に対する配慮が不足していたことである。 濠州の捕虜に対する取り扱いは、前述のとおり非常に好意的であった。 内務に従事する者としては烹炊員、理髪、ミシン、病院の通訳等があり、これらの勤務者に対しては、日当賃金が支払われた。

金銭の必要が全くない捕虜であり、合計額は相当のものになっていた。 そこで万国赤十字社の取り計らいにより、日本本土内の病院に献金する手続きをとってくれた。

ところが日本政府から、日本軍人に捕虜はないはずである。 そういう者からの献金は受けられないということで返金されたと聞かされた。

あるいは反動分子の計画的謀略だったのかも分からないが、捕虜の身から考えると悲しかった。 捕虜になった者は、もはや日本には無用の存在なのであろう。 いわば国賊なのだ。 結局死以外に選ぶ道はないという考え方がもち上がってきた。

以上のようなことから、“生きて虜囚の唇かしめを受けず” という思想が、敗北してなお生き永らえようとすることは恥辱であるという観念となり、日本人の胸中に根深く宿っている死を選ぼうというムードが次第に収容所内に高まってきた。

これはリーダーの過激な意見によるものではなく、捕虜全員の共通した意見であったのだ。

いろいろと考え抜いた末、次ぎのような意見が纏まった。

「 全員で騒ぎたて、収容所のバリケードを乗り越えることだ。 警備兵は必ず銃撃してくる。 濠州兵の銃弾により死ねば、これこそ希望している戦死である。」

かくして密かに行動計画が練られ、総員に計画が徹底されていた。 問題はいつ決行するかであった。

しかしその日は意外に早くやって来た。 日本人捕虜の数がうなぎのぼりに増えだし、不隠な空気を察知したのか、濠州側は下士官と兵の収容所を別々にすると言い出した。 当然捕虜一同はこれに反対した。 同時に “決行はこの機会を逃したらない” という声が高まった。

「 何でもよかったのである。 決行の切っ掛けだけが欲しかったのである。」

古川兵曹は当時を偲んでそう語ってくれた。
(続く)

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