2015年04月28日

大空への追想 (255)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 笑いを忘れた収容所生活

へイの町はシドニーの西方約600キロ内陸にあり、アランビッチ河畔に面した所に日本人居留民の 「ナンバー6」 収容所があった。

そこにはシドニー、メルボルン出向の日本商社員、銀行員等の高級社員から、木曜島での真珠貝採取ダイバー等に至るまで、種々な職業に就いていた日本人が約1000名もいた。

軍属と偽ってはいたものの、この収容所に日本軍捕虜として収容されたのは高原兵曹等の5名が最初であった。

既に元気を取り戻していた5名の収容所生活は、毎日付近の野菜栽培の農場で働き、僅かな日当を貰うという味気ないものであった。

捕虜の身であり、いずれの日にか死を覚悟している5名にとっては、死ぬ日と、死ぬ方法を考えるくらいがせめてもの慰めであった。

まもなく捕虜第二号として、海軍の下士官グループがやって来た。 その中に既述の 「加賀」 艦爆隊の搭乗員がいた。 高原兵曹等5名は軍属として偽名を使い、一切飛行艇搭乗員であることを秘していた。

戦況が切迫するに伴い、ニューギニア、ニューブリテン、ビアク、ガダルカナル等から陸海軍の傷病兵、艦船沈没時の漂流者等が続々と送り込まれ、へイ収容所は満員になってしまった。

日本人居留民達は17年の春、捕虜たちと分離するため、ポルトガルの斡旋により居留民交換船で濠州からロレンコーマルケス港 (アフリカ) に移動することになった。

居留民達がへイを出る時、彼らから捕虜達に対して、日本に帰国したならそれぞれの故郷に連絡してやりたいので住所を知らせて欲しいという話があったが、今更家族に知らせたところで心配させるだけであると考え、彼らの好意に感謝しながらほとんどの者が断った。

へイ収容所が満員になったため、約1年後には日本軍捕虜はすべてカウラ (ナンバー12) 収容所に移動した。

カウラ収容所はシドニー西方約300キロにあり、陸海軍下士官兵約1千名と別棟の士官収容所に陸海軍将校約20名が収容されていた。

5名のクルー達は軍属ということで、士官収容所の当番兵として約6か月間勤務を命ぜられた。

5名は明日の命も分からぬ捕虜ではあったが、死ぬまでは酔生夢死することなく、何でもいいから勉強しようということを誓い合った。

高原、古川両君は英語の勉強を思いつき、進んで収容所や病院の通訳を買って出た。 中学卒業時の頼りない学力ながら、懸命に努力したので、濠軍看護婦や軍医から好感を持たれるようになった。

このことは、我が負傷兵の治療面にも大いに貢献できた。 英語の勉強といっても教科書があるわけでほない。 濠軍の読み捨てた英文の新聞等でなんとか力をつけていただけである。

濠州兵の日本人捕虜に対する取り扱いは決して悪いものではなかった。 捕虜の要求に対しては、衣食住に関する限り大部分のことは受け入れてくれた。

ただ真っ赤な服を着せられたことだけが、日本人の慣習として歓迎されなかった。 そこで、自らの工夫で出来るだけ赤を変色するように努めていた。

負傷者の治療についても、当時日本の医療技術にはなかった神経縫合手術を施す等、高度の治療を受けて回復した者も相当数にのぼっていた。

しかし捕虜にとってはただ一つ “生きて虜囚の辱かしめを受けず” という軍人精神を心の奥底に叩き込まれているだけに、常に終局は死に連なる考え方だけはどうしても捨て切れなかったのである。

日本人として捕虜ということに対する恥辱に堪えきれない苦痛が常に我が身を大きく覆っていたことは事実である。
(続く)

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