2015年04月27日

大空への追想 (254)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 濠州大陸縦断、護送の旅は続く

目隠しを取られた時、5名は互いに顔を見合わせたが、誰も放心状態になっていた。 しかし、一室に集められた時に訊問を受けるなーと気がついた。

誘導訊問に引っかかって真実を喋ないよう相談したが、そこで考えついたのが、17年1月24日にセレべス島ケマ基地で米潜水艦の雷撃をうけて沈没した東港航空隊所属の支援船 「妙見丸」 (注) のことである。

(注) : この件については本連載第80回を参照して下さい。

5人は 「妙見丸」 乗り組みの軍属であり、アラフラ海で飛行艇の不時着救難配備についていた際、火災を起こして沈没し漂流していたということで辻褄を合わせることに一決した。

(原注) : 日本帰還時まで5名は徹底して軍属を名乗り通したのである。

予期したとおり、濠軍老中尉の通訳で5人は別々に訊問を受けることになった。 「妙見丸」 乗り組みの海軍軍属だと言うと、調査官達は船舶年艦を持ち出して熱心に調査していたが、確認できない様子であった。

軍隊のこと等さっぱり分らないという態度を強引に示していると、こんな半死半生の船員を調べたところで何も効果なしと思ったのか、とうとう訊問を諦めてしまった。

訊問をされたその日、初めてパンと牛乳を与えられた。 敵から食物を与えられることは好まなかったのであるが、いずれの日にか銃殺されるものと覚悟していたので、最後に折角の彼らの好意を受けてやろうという気になった。 負傷の手当ても受けた。

漂流が5日間、島内の彷徨が10日間とみて、今日は3月6日頃のはずであると思った。

全く久し振りに食器を手にすることになったが、更に万国赤十字社からだと言って、帽子、運動靴、下着、軽装服、日用品等が支給された。

久し振りにシャワーを浴び、ヒゲも剃った。 剃るというよりも、刈るという方が適当である。 そして応急治療で体中を包帯され、森の中の病院に入れられた。

どうやらこれで生きた心地がして来た。 これでよし、いつでも処刑に応じてやると思っていたが、どうやら処刑はしないらしく、ただ病院生活を続けているだけであった。


ある日、大尉の看護婦が古川兵曹のところにやって来て、小さな銘板を示し、これを読んでくれというのである。

一目見てそれは日本の九九式艦爆の脚オレオについていたものだと分かったが、こんなことで身分がばれたら大変と思って、数字以外は何も分からないと答えておいた。

(原注) : これは17年2月19日、ポートダーウィン空襲時撃墜された空母 「加賀」 の艦爆のもので、このパイロットは負傷して捕虜となり、やがて同じ収容所にいたのだが、カウラで死亡したのである。


17年3月15日と記憶しているが、ポートダーウィン所在の濠州軍の一部がメルボルンに移動することになり、我が5名も護衛付きで移動部隊に便乗することになった。

一同傷もほぼ治っていたが、この移動がまた大変であった。 約30両のトラック部隊である。 ダーウィンを出発し、遥々と濠州縦断の旅についた。

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( 原著より  濠州大陸行動図 )

殺風景な原野をひた走りに走って森林地帯にさしかかろうとした時、トラック群が急に列を乱して先を争うように森の中に逃げ込んだ。

何事が起こったのかと思っていると、上空を日の丸も鮮やかに零戦が数機編隊で轟々たる爆音を響かせながら、北西方に飛び去っていった。

「零ファイターは恐ろしいんだ」 と彼らは一斉に顔色を変えていた。 5人は逆に胸を張った。 あの二十ミリ機銃をぶち込んでもらいたかった。 恐らく、ブルーム基地を襲い、燃料に余裕がないためチモールに急ぐ三空の戦闘機隊だったのであろう。

大森林、大草原、砂丘から砂丘へ、オアシスからオアシスへと計画的なトラックの旅は約一週間続いて、アリススプリングス (縦断鉄道の基点) まで行くことになっていた。

この間途中に繰り広げられた光景は実に雄大なものであった。 大草原の中の巨大な蟻の塔、潅木帯を走るカンガルーの大群、コアラがその葉を食べるというユーカリの巨大樹、風化の激しい真っ赤な山岳、果てしもなく続く砂漠、大きなカゲロウ、まるで西部劇にでも出てくるような光景の連続で、夢の国にでも遊んでいるような錯覚に陥ったものである。

しかし銃殺を覚悟しての捕虜の身となっている現実に甦ってみると、何の感動も湧いてこなかった。

砂嵐に何回か出遭って、トラックの乗員はいずれも全身が真っ黒となっていた。

やっとのことでアリススプリングスに到着すると、休む間もなく待機していた輸送列車に乗り込まされた。 バザースト島での彷徨に比べれば雲泥の差ではあったが、それでもやはり苦しい旅であった。

列車の旅は更に一週間を費やし、アデレード、メルボルン、キャンベラを経て、5名は17年4月上旬、日本人居留民の収容されているへイ収容所に入ることになったのである。
(続く)

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