2023年02月26日

海上自衛隊の古い史料 −30


今回ご紹介するのは、昭和33年に海上自衛隊術科学校横須賀分校が出した 『艦隊運動程式の研究』 です。


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これは昭和32年の第7期甲種専攻科学生の研究課題の答申を海自部内に検討のために配布したもので、当初は 「極秘」 文書でしたが、昭和44年になって解除されています。

旧海軍においては、明治期に艦隊・戦隊においてタイトな陣形をとる場合の各艦の運動要領などについて 『艦隊運動軌範』 続いて 『艦隊運動程式』 が定められ、後者に改訂を加えつつ今次大戦の終戦まで存続しました。

例えば有名なものでは、ミッドウェー海戦において機動部隊4隻の空母壊滅後の避退中に、第7戦隊の 「三隈」 と 「最上」 がこの 『艦隊運動程式』 による緊急回頭信号の解釈を誤った結果両艦が衝突して、それが元でその後の 「三隈」 の喪失に繋がったことは良く知られているところです。

警備隊を経て海上自衛隊の創設期において、艦隊 (船隊) などにおける運動はこの旧海軍の 『艦隊運動程式』 を基に、これに米海軍による指導の基となった連合軍戦術書 (ATPやACPなど、通称 “AP類”) などによる改訂を加えて 『自衛艦隊運動程式』 が作られましたが、米海軍から一人立ちするに当たり、更に海上自衛隊独自の本格的なものとすることを目指したものです。

ところが、その後は米海軍との共同連携作戦が強く重視される方向に進んだことと、海上戦の戦闘様相の変化によりタイトな陣形での運動が重視されなくなってきたことなどから、結局新たな 『艦隊運動程式』 (あるいは『艦隊運動教範』) が作られることはなく、各種戦における戦術も、そのために必要となる通信・信号類も、米海軍によるところが強くなり、まさに “AP類全盛” となり、必要に応じてその補足事項が護衛艦隊などから出される程度となりました。

私の初級幹部の頃は寝ても覚めても二言目にはこの “AP、AP、AP” という状況でした。 既に “艦隊運動程式 ? なにそれ ?” と。

私は昭和末期になって本史料が残されているのを見つけて複製をとっておきましたが、旧海軍における艦隊運動の基本的な考え方、そして米海軍との違いを研究するためには極めて高い価値があるものと考えています。

しかしながら、本史料、そしてその元となった 『自衛艦隊運動程式』 などは (も)、現在の海上自衛隊に残されているんでしょうか ? 既にこれら古いものは全て廃棄処分されて現存していないのではとの強い疑念がありますが。


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前 : 29
    http://navgunschl.sblo.jp/article/189931100.html

posted by 桜と錨 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 海上自衛隊の古い史料

2023年02月21日

故 松本零士氏の思い出


もう20年以上前のこと。 平成11年に呉地方隊の展示訓練が大阪湾で行われ、私の 「きりしま」 もその目玉の1隻として参加し大阪南港に入りました。

そしてこの時に松本零士氏が保管しておられた 「出雲」 が日本海海戦で掲揚したとされる記念軍艦旗が海上自衛隊に寄贈されることになり、「きりしま」 艦上で氏からの贈呈式が行われました。

その贈呈式のあと、氏からこの 「出雲」 の記念軍艦旗を出港の時にメインマストに掲げてもらいたいと申し出が。

海上自衛隊での規則には反すること (自衛艦旗は軍艦旗と同じデザイン) ですし、何しろ古いものですので万一揚旗線にでも絡んで毀損でもしたら、と一度はお断りしたのですが、それでもと氏のたっての強いご要望により 「判りました、喜んで」 と。

そして展示訓練で一般の乗客の方々を満載して出港する時に、メインマストにこの大きな記念軍艦旗を高々と掲げて。 これは翌日の各新聞の地方版でも大々的に取り上げられました。

もちろん呉監や海幕などに事前に了承を得ることなく、艦長たる私の責任で独断でやったことですが。

この記念軍艦旗、このあと阪神基地隊か呉監かに召し上げられたのですが、その後どうなったのか。 現在までどこでどの様に保管されているのかなどは、見たことも聞いたことも無いのですが ・・・・ ?


松本零士氏には折角の機会ですからと、贈呈式のあと隊司令に断って特別に当時最新式のイージス艦のCICの中をご案内しました。 艦長席に座っていただいて “ここで艦の指揮を” などと説明を。 もちろんスクリーンやコンソールなどの表示は正規のものとは全く別の状態としてですが。 氏は 「宇宙戦艦ヤマトのイメージと良く合ってますね 〜」 と感慨深げに。

当時は松本零士氏も還暦を過ぎたばかりで、一段と脂の乗った時期。

懐かしい思い出です。


氏の魂を乗せた列車は今頃どの辺りの星空を走っているのでしょうか。 氏のご冥福を心よりお祈りいたします (合掌)

posted by 桜と錨 at 20:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに

秘密漏洩 卑劣な某海自OBは誰 ?


さるニュースから

「 昨年12月末、東京・目黒にある海上自衛隊幹部学校では、ひとりの1等海佐が着慣れた制服ではなく私服姿でこの組織を去った。その去り際を見送ったのは同僚と思しき職員がたったひとり。約30年近く、この組織一筋で働いてきた者への見送りというにはあまりにも寂しい光景だ。」

そう、特定秘密漏洩で懲戒免職となった井上高志元一佐です。 まああまりにも非常識なことであり、常軌を逸していますから、“自業自得” であることは間違いありません。 これで彼は海上自衛隊における功績の全てを失い、退職金、叙位叙勲などにも影響してくるわけです。

ところがその一方で、その情報を要求して特定秘密を入手したとされる肝心な元自衛艦隊司令官という海自OBはなぜ出て来ないのか? これほど卑劣なことがあるのでしょうか。 あまりにも情けない。

聞くところによると 「自分は “確かな情報が欲しい” と言っただけで特定秘密そのものを要求したわけではない」 などとのたまわっているとか。 いい加減なものですねえ。 自分のやったことに対する自覚も反省もそのカケラさえ無いとは。

キチンと表に出て来て、「自分のせいでこの様な事になり、井上一佐は元より、古巣の海自に大変な迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ない」 と謝罪するのが、常識ある人間として当然というものでしょう。

そして何よりも、それに輪をかけたように情けないのが防衛省・海上自衛隊と言う “お役所” ですね。

相手が一般の市民であるならともかく、元海自高級幹部という立場を利用しての海自と言う組織に対して行った不正・不法行為であるにも関わらず、そのことは棚の上に置いたままで、漏洩事件は当の海自自衛官個人の責任であると言うこれまた反省もない態度で、当の現職自衛官一人をエスケープ・ゴートにしてその首をちょん切ればそれで一件終わりという姿勢。

海自における秘密保全については、私はもう50年も前の初級幹部時代からその実態の酷さ、実効性の無さを警鐘して来ました。

つまり、下の者には口先で五月蝿く言うものの自分では決して動かない(= 如何にして保全措置をとりつつ下の業務をやり易く効率的にするかの具体策を示すことは無い)、しかも自分自身は好きな様にやって良いんだという姿勢、態度。 これは階級が上になればなるほど顕著で。

それに、下の者が一生懸命苦労して集め、纏めた情報なども、立場を利用していとも簡単に “貸してね” “貰うね” でさも自分のもののように振る舞い、上の者、官僚、政治屋に “こう言うものならあるけど” と大きな顔をする。

こう言う感覚の 「背服を着た能吏」 達が (肩書きばかり) 出世して海上自衛隊という “お役所” を牛耳る世界ですから、今の様な組織になってしまうのかと。

今回の事件もまた本人個人をエスケープ・ゴートにし(あとは少数の者を監督責任などでお茶を濁して)、現場に対しては不要、無意味な縛りばかりがキツくなるんでしょうねえ。 それで “措置・対策はとった” と。

そして当の肝心な海自OBはというと、熱りが冷めた頃を見計らって “そんなことは俺は関係無いし知らん” としれっとして大きな顔でまた世に出てくるんでしょうねえ。 きっと。

posted by 桜と錨 at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月19日

『海上自衛隊25年史 資料編』 全編完了 !


今週の本家サイトの更新は、『海上自衛隊25年史 資料編』 の残りの3項目、「VIII 装備」 「XI 年表」 「XII  参考」 を追加し、これにて 『海上自衛隊25年史』 及び 『 同 資料編』 の全ての公開が完了しました。

http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html


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「参考」 の項中の艦艇・航空機の写真は、大変に画質・印刷が悪いもので、CD版にはもう少し解像度の高い綺麗なものがありますが、『資料編』 は取り敢えず全頁をそのままスキャンして多少のゴミ取りをしただけとしておりますのでご容赦を。

この後、時間がとれましたらこれらについて少しずつ手直しをしていきたいと思っていますが ・・・・


今回の 「装備」 「年表 」「参考」 の何れも立派な出来で、海上自衛隊の初期の歴史に興味をお持ちの方々には有益なものと考えます。

例えば、「年表」 は私はこれを基に他の公的資料で補完してパソコン用のデータ・ベースを作りました。 個艦名などで検索すると就役から除籍までの経緯、所属部隊名などの変遷が出てきますし、部隊名で検索するとその編成・配属先などの変遷が一覧で表示されます。 これは便利です。


いずれにしても、この 『25年史』 及び 『同 資料編』 は、これまで海上自衛隊からは40年以上全く公開されてこなかったもので (今後もその意思は無い?)、ネットを含めて一般に公開される始めてのものであると自負しております。

ご覧いただいてきてお判りのように、秘密に関することは全く含まれておりませんし、むしろ内容的には、永年にわたり国民の血税を使ってきた防衛省・海上自衛隊がその使い道を国民に対して説明すべきものであるといえます。

しかも、50年史編纂の時に一緒にこの25年史も入れたCD版まで作りましたが、これを海上幕僚長経験者などの元海将OB達の集まりである 「木曜会」 と称するところでは、ヘラヘラとゴマすりのご機嫌取りに配っているにも関わらず、です (^_^;

posted by 桜と錨 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月17日

我が家のニャンコ


このところ寒い日が続きますが、夜中に外気が零度前後くらいまで下がる時は夜食のチュールを食べた後は家内のお布団の中にスルスルっと潜り込んで朝まで一緒に寝ています。

しかし夜中が5度くらいの時は私の布団の上の掛け毛布に上がってきて、足元に置いてある湯たんぽの上のところでゴロン。 しかも掛け毛布を二つに折って上からスッポリ掛けろと催促。

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でもやっぱり夜中 〜 明け方に這い出して来て私の顔をペロペロ舐めながら 「ニャ〜ン (チュール)」 と。 そして食べ終わったらまた足元の湯たんぽの上のところに戻って来ます。

そして、昼間はいつもなら私の仕事部屋か居間のファンヒーターの前でゴロゴロしているか家中を走り回って遊んでいるのですが ・・・・

ところが今日はずっと昼間に姿が見えず。

どこにいるのかと探しましたら、寝室の私のベットの上で掛け毛布に潜り込んで湯たんぽの温もりのあるところの上に寝っ転がってスヤスヤ。

私達と朝食を一緒に食べた後、しばらくした昼前にしきりにせがむのでチュールより量が多いチャオを一袋食べさせましたが、お腹が一杯になって暖かいところでゆっくり寝ていたかったのかと (^_^)

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( “何の用だよ 〜” という顔 )

posted by 桜と錨 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2023年02月16日

今日の晩酌


いつもの小さなお魚屋さんを覗きましたら、珍しく美味しそうなフグ皮のお刺身が並んでいました。

ここのお店にあるものはいつも新鮮で間違いなしですから、まだ活きてゴニョゴニョしているトコブシト少々と一緒に即ゲット。

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どちらもツマミとして文句なし。

そしてお酒は頂き物の福島小原酒造さんのその名もズバリの 「蔵粋」(クラシック) で、モーツァルトの音楽を聴かせながらゆっくり発酵させたというもの。 大変円やかで喉越しも爽やか、新鮮な海産物にもピッタリの美味しいお酒です。

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良いお酒と良いツマミ、嬉しいですね 〜 今晩は家内共々大満足です。

posted by 桜と錨 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2023年02月15日

バレンタイン・デーのチョコ


昨日はバレンタイン・デーでしたが、娘達は年寄りのカロリーの摂りすぎに気をつかってチョコレートは無し、家内と小春が気持ち (=形) ばかりのものをくれました。

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それにしても、製菓会社とマスコミに踊らされた義理チョコ・ブームはだんだんと影を潜め、最近は本命用と自分用の超高級なものが売れるようになってきた様ですね。

私が高校、大学の頃にはまだバレンタイン・デーに女性からチョコレートを贈る風習などはありませんでした。 手紙と言うのは (聞いたことが) ありましたが。

う〜ん、でもチョコレート好きな私としては極くふつ〜のもので良いんですけど ・・・・ そのかわり夜パソコンの前でコーヒーを飲みながらムシャムシャやりますので大量に。

でもそう言うとまた家内に怒られるんですよね、歳を考えなさい、と (^_^)

posted by 桜と錨 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2023年02月07日

我が家の節分


遅ればせながら、2日の節分ネタです。

スーパーやコンビニで売っている恵方巻では味気ないからと家内が作ってくれました。

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桜でんぶのタップリ入った甘いやつや入っていないものなど3種類です。

しかしながら、我が家では太巻きを恵方巻としてそのまま恵方の方向(今年は南南東?)を向いてほうばるような風習はありませんので、それなりの大きさに切って。

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まあ、これでは単なる “巻寿司” ですが、家内のお手製ですからやはり美味しいです。

(そもそも、その “恵方巻” なる言い方や食べ方を知ったのはマスコミに踊らされたつい最近で (^_^; )

で、買い置きの甘酒を。 全くのノンアルコールですが、節分にはこれはこれで。

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posted by 桜と錨 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2023年02月05日

公刊『海上自衛隊25年史 資料編』 項目追加公開!


今週の本家サイトの更新として、公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 に 「XI 教育・訓練」 の項を追加公開しました。

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http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html


本項も大変良く出来た図表ばかりなのですが ・・・・

あと残り3項目で全体の1/3ほどです。

posted by 桜と錨 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月04日

阪神災害派遣の思い出 (終)


12話にわたり思い出すままに順不同でお話ししてきました。

これらは、28年前の阪神淡路大震災に対する海上自衛隊の災害派遣について、その司令部の一員として実施し、また見聞きしたことなどで、これまで他でお話ししたことはほとんど無いものです。

もちろん、公式の記録には残らないもの、残せないものも含めて、全て私の個人的な所見で、文責は私個人にあります。

私も良い歳になりましたので、これらはこの機会にお話ししておかないと、おそらくもう今後は無いかもと思ってのことです。

まだまだお話ししたい事は沢山あるのですが ・・・・ 取り敢えずこの辺で一区切りを。
  
  
1月17日の発災直後から、そして半壊した阪神基地隊の庁舎に進出しての不眠不休ともいえる48日間、私にとっても一生忘れることのできない日々となりました。

そして中には、結果オーライとはなったものの、もしその時の判断・処置が間違っていたならば後で懲罰をもらったかも知れないこともやりました。 もちろんその様なことは覚悟の上で。
  
  
呉から阪基に進出して最初の1週間ほどは、明け方頃業務の手があいた時に司令部作戦室の椅子に座ったまま1〜2時間ほどのうたた寝、それ以降は毎日夜中に自分の業務が一段落したところで、庁舎会議室を片付けて床に直にマットレスを並べただけのその上に、作業服を着たまま毛布に包まって何とか3〜4時間の仮眠。 もちろんその時でも何かあればすぐ起こされて。

暖房はなく、ヒビが入った壁やずれた窓から冷たい隙間風が吹き込み、そして付近一帯の湧水が引いて乾いた後の砂埃がその隙間風と共に室内に舞う中で。

もちろん当初は食事や入浴などは言わずもがなでしたし、トイレは何とか手が空いた時に例の庁舎裏に並ぶ簡易トイレに走って行って。
  
  
それでも、司令部一同のみならず、艦艇・航空部隊や陸上部隊からの派遣隊員も総員が皆頑張って一生懸命やったつもりです。 特に自分自身やその家族が震災の被災者でもあった阪基隊員達は。
  
  
微力であったと言われればそうだったかもしれません。 もっと一人でも多くの方々を助けられたのでは、もっと多くの色々なことがやれたのでは、との念も今でも頭をよぎります。

がその一方で、当時は、呉地方隊を始めとする海上自衛隊には、神戸のような大都市におけるこのような未曾有の大震災に対する備えが十分で無かったこともまた確かです。

それ故に、不幸にしてこの後に生起した東日本大震災では、この時の教訓が多少なりとも活かされていてくれれば、と思っていますが ・・・・
  
  
阪神淡路大震災における海自災害派遣部隊の詳細については、平成7年5月11日付の 『阪神・淡路大震災に伴う災害派遣詳報』 (呉監防3第872号別冊) が出ていますのでこれをご覧ください。

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もちろんこの文書は海自部内におけるいわゆる “公式” な記録であることは申し上げるまでもありませんので、当然ながら “書けないこと” “言えないこと” などは載っておりませんが。

そして28年も前の 「注意」 文書 (=秘密文書では無い) であるにも関わらず、いまだに海上自衛隊はこれを一般に公開しておりませんので、興味のある方々は防衛省・海自に情報開示請求をしてみて下さい。 部分的にかもしれませんが出てくるかも。

( 私の手許にあるものを公開しても良いかもしれませんが、何しろ400ページを超えますで、整形とゴミ取りに手間暇がかかりその余裕もありませんので ・・・・ )  
  
  
最後に、震災でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた阪神淡路の皆さんに幸あらんことを。

頑張れ、神戸 !


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( 発災当日の阪基の崩壊した護岸・グランドと湧水  阪基の記念テレカより )


(本項終り)

posted by 桜と錨 at 11:01| Comment(4) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月03日

阪神災害派遣の思い出 (12・後)


前述のように、現地司令部は呉監防衛部長以下の防衛部幕僚をメインとしたことと、半壊した阪基庁舎に置かざるを得なかったこともあって、設備や機器もほとんど無い、少人数の大変コンパクトなものでした。

しかしながら、結果的にはこの小さな現地司令部は大変上手く機能しました。

何と言っても、指揮官の加藤呉総監は常に極めて簡潔かつ明確に方針を示され、そして司令部幕僚長としての防衛部長はこの総監の方針に基づき具体的な実施事項を的確に指示されて、あとは各幕僚がこれに従って思う存分にやらせてもらえたからです。

特に有益だったのは、幸いにも2〜5幕僚室長と気象班長の5人が候校同期であり、そしてこのメンバーで既に呉監防衛部で約1年を共にしてきたことから、防衛部長以下が纏まった1つのチームとして動くことができ、幕僚間の意思の疎通と連携も極めて良好でスムーズに行ったことでした。

また、阪基司令は司令部幕僚業務の雑事に巻き込まれ無いようこの幕僚組織とは切り離し、対外的に指揮官たる呉総監の代理として、また呉総監の相談役として、更には現地司令部の日常を支える阪基本部の各機能の指揮官として動かれ、これは大変有効かつ効果的でした。

大人数・大規模で、かつ施設・設備の整った司令部であるならば、それはそれでもう少し違ったやり方が有ったのかもしれませんが、この程度の小さくコンパクトな司令部で、かつパソコンやネットさえ十分でない時代の半壊した阪基庁舎においてでは、これはこれで十分に機能し良かったと思っています。

そしてこの半壊した阪基庁舎において、元々の阪基本部の隊員に加え、呉から進出してきた呉警備隊、通信隊、衛生隊、調査隊、造修所、補給所などからの派遣隊員は、極めて精力的に司令部を支えてくれました。
 
 
しかしながらその一方で、海幕は上級司令部組織としては機能したのか?

私達派遣部隊司令部の幕僚からすれば何の役にも立たず、高所大局からする神戸を含む地域の情勢・情報を集めて司令部に流してくるなどは一度たりともなく、しかも各部・各課の担当者はそれでなくとも忙しい派遣部隊司令部に対してそれぞれがその時その時に思いついたことをその都度勝手にやいのやいのと言って来て業務の邪魔をする始末で。

例えば、海幕防衛部などは、毎日その日の実施業務や現地の状況分析内容などは日報として報告を上げているにも関わらず、内局から要求されたと言って全く異なった別の様式でその日ごとの報告書を作って出せと。 こちらは一人で何役もやってバタバタしているにも関わらずです。

内局要求の報告書は海幕防衛部で日報から当該様式に書き直せば良いだろうと言ってもダメ。 ではその書き直しのための人手を海幕から現地司令部に出してくれと言ってもダメ。 結局現地司令部で毎日二度手間の書類作りをさせられることに。

ことほど左様に現地司令部の幕僚にとっては海幕とはそんなものでした。

おそらく、海幕長からは各部・各課に対して “可能な限り現地司令部を支援・手助けしてやれ” などという言葉は全く無かったであろうし、各部長・課長クラスは各部長・課長クラスで “何かやっている” “現地に指示を出している” という姿勢を見せることによって自分達の点数稼ぎをしようとしたのでしょうね。

(続く)

posted by 桜と錨 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月02日

阪神災害派遣の思い出 (12・前)


これは是非ともお話ししておかなければならないでしょう。 阪神淡路大震災における海上自衛隊災害派遣部隊の現地司令部についてです。

(ちょっと長くなりますので2回に分けます。)

既にお話ししました様に、呉監では17日の発災直後から震災の中心が大阪・阪神方面であると判断しましたが、取り敢えずは神戸魚崎浜にある海自の阪神基地隊への応援を名目とする呉地隊の部隊の派出と航空機による状況偵察から手をつけました。 この段階では、まだ神戸があの様になっているなどは全く分からなかったからです。

17日の昼過ぎ頃から神戸の状況がテレビなどにより断片的に入りだしましたが、正確な全体像はさっぱり。

そして何よりも、阪神基地隊自体が震災で半分崩壊している上、電話回線も1本しか通じず、阪基本部の隊員は警急呼集でも帰隊でない者が多数おり、当直者や集まった者達も阪基やその周辺の被害確認や呉総監部を始めとする各部への連絡・対応などで手一杯でバタバタしており、呉監には現地の纏まった状況が全く入ってきません。

申し上げるまでも無く、阪神基地隊というのは補給をメインとする後方支援のための陸上部隊ですので、15掃海隊や1哨戒隊などを有するとはいうものの、本部そのものには実動部隊などのような幕僚機構が十分ではありませんし、指揮管制機能なども全くの不十分なところです。

呉監では災害派遣で動き出そうと思っても震災の全体像は掴めず、かつ兵庫県や神戸市からは待てど暮らせど災害派遣要請は一向になく、それどころか連絡さえつかない状況でした。

もちろん海幕などからの震災についての纏まった情報などは一切無し。

やっと17日の夜になって陸自の先遣隊の連絡幹部を通じて兵庫県庁から電話が呉監に入ったのですが、相手は “海自に対する災害派遣要請の方法が判らない” と。

そこで業を煮やした防衛部長が “この電話をもって要請があったものとする。 要請事項はこれ、これ、これ、で” と。 これを相手が了解しましたので、呉監はやっと正式に災害派遣として動ける様になりました。 17日の1950のことです。

そしてその僅か50分後の2040には発災直後に阪基支援名目で緊急出港させた38護衛隊 (とかち) が、続いて18日未明の0348には22護衛隊 (みねぐも、なつぐも) が、呉から阪基沖に到着し投錨したのです。

ところが、やっぱり相変わらず阪基との疎通ができず現地の状況がよく判りません。

そこで翌18日朝、呉総監が直接HSで現地へ飛んで状況を確認、そして阪基や神戸市などと調整をした結果、総監自身が防衛部幕僚を率いて現地に進出して海自災害派遣部隊の指揮をとる (とらざるを得ない) ことを決心されました。

そして19日朝になって総監は防衛部長及び2〜5幕僚室長と気象班長など防衛部幕僚10名を引き連れてHS2機で飛び、半壊した阪基の庁舎に現地司令部を置き、庁舎屋上に海将旗を掲げたのです。

(続く)

posted by 桜と錨 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 海自のこと

2023年02月01日

阪神災害派遣の思い出 (11)


補給艦などによる岸壁での本格的な給水支援が始まった頃のことです。

その給水支援に当たっている某艦から

「毎日何度も同じナンバーの給水車が頻繁に真水を貰いに来るけどおかしいのでは?」と。

そこで調査隊に車で後をつけさせたところ、当該給水車は避難所や予め許可を得て復興にかかっている企業などへ向かうのではなく、某ホテルに出入りしていることが判りました。

そこで神戸市に対して、

「給水はホテルなど企業の営業用ではないので、神戸市で真水を然るべきところへ運ぶ給水車には市発行の許可証を運転席の窓ガラスにハッキリ掲示するよう指導して貰いたい。 こちらも岸壁の給水場に給水車が来ても、その許可証が確認できない場合には給水しないようにするので」

と申し入れました。 それ以来、こう言ういわば “コソ泥” 的な給水車は桟橋に来なくなった様です。

ただし企業などの営業用はダメとは言っても、もちろん例外は色々ありました。

例えば、生糧品などを専門に扱う様な大きな倉庫などの場合で、震災による湧水が中に入り込んでドロドロになっており、その湧水が引いた後も悪臭を伴う大変に不衛生な状態となっていることから、早期に床などの洗浄が必要ということで、市の了解を得た上で何度か当該給水車への給水を認めたことなど。

(続く)

posted by 桜と錨 at 20:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 海自のこと