2023年01月31日
阪神災害派遣の思い出 (10)
JR新長田駅南側を始めとして、神戸の長田地区は震災による被害に加えて、それに伴っての火災により甚大な被害と犠牲者が発生しました。
ところが、です。 発災から2週間も経っていない、まだ不明者の捜索なども引き続いていた時に、神戸市から突然として長田地区の復興計画なるイラスト入りのそれは立派なものが早々に出されました。
私達司令部一同はこれを見て 「何だこれは、こんな時期に、それもこんなに早く。 震災によるとはいえ、これ幸いにとこの街の壊滅をまるで今か今かと予め待っていたかのような」 と。
被災した一帯は今では見事に再建されましたが ・・・・
神戸市役所・長田区役所などと当該地区一帯とは以前からこう言う関係だったのかと感じた次第です。
そしてこの長田地区に関連してもう一つ。
当該地区の火災が一段落した時、管轄する警察署などに身元不明の焼死体が百体以上、110〜120体ほどだったかと、が置かれているとされていました。
当時のマスコミなどで公表される震災による犠牲者や不明者の数は、住所や氏名などがはっきりしてどこの誰と判っている人の数とされており、この身元不明の焼死体の方々の数は含まれていませんでした。
その後現在に至るまで、このご遺体の数は震災の公式記録上一体どうなったのでしょうか ?
(続く)
2023年01月30日
阪神災害派遣の思い出 (9)
海自の災害派遣の主任務が給水支援と陸自派遣隊員の宿泊支援が本格化した第2期に入ってからのことです。
ある日の夕方、ポートアイランドに進駐している陸自の部隊から電話が入りました。 曰く、
「既に陸自が寝泊りしている艦艇以外で、入浴できるところはありますか ?」
で、「魚崎浜の阪神基地隊の直ぐ隣の日本ポート産業の桟橋にいる 「しらね」 なら可能だし、大型護衛艦だからそれなりの大人数でも大丈夫」 と。
ところがその電話口の相手は、
「あ〜、残念ながらそこは担任区の外なので行けません。」
車を連ねてさっと来て入浴が終わったらさっと帰れば、と思いましたし、そのように電話口の相手には言ったのですが ・・・・
陸自さんの部隊が複数で任務に当たる時はキチンと担任区を設定するのは判りますが、災害派遣の直接の業務以外の時の入浴でさえもこれなんですねえ。
私達海自の者にはとても理解できないところです。
(続く)
2023年01月29日
阪神災害派遣の思い出 (8)
これはいつのことだったのかは確かな記憶がありません。
阪神基地隊には屋内温水プールがあり、以前から宝塚音楽学校のお嬢さん達も冬場の体育の一貫として利用していました。
ところが震災によってこのプールに亀裂が入って水が抜けたために使用できなくなってしまいました。
そこである日、この宝塚のお嬢さん達が慰問を兼ねて阪基を訪れてくれた時に、帰り際にこれまでのせめてものお礼にと阪基の隊員にコーラスを披露してくれました。
ただ私自身はこのお嬢さん方の制服姿にお目にかかれず、かつこのコーラスも聞けなかったので、今思っても返す返すも残念なことであったと。
また、司令部が阪基に進出して2週間くらいした時であったと思います。 大阪の 「とうばく演芸隊」 (だったと記憶) という吉本の若手芸人さん達のグループが慰問に訪れてくれ、そして何と驚くことにビール缶 (カナダのラバットと言う銘柄でした) の100ケースをプレゼントしてくれました。
嬉しかったですねえ、寝る暇などほとんど無いほど忙しく心身共に疲労が溜まっている時にこう言う激励の心遣いは。
1ケースは司令部の各人が夜中に休憩する時に1本づつ頂きましたが、残りは全て派遣部隊に配るようにと指示を。
ところでその一方で、我が海自の海幕などはもちろん、海自OBの元高級幹部達が大きな顔をしている水交会などはどうだったのか ?
期間中に一度 (2月1日) 海上幕僚長による司令部視察がありましたが、文句・お小言ばかりで “ご苦労さん” の一言も無し。 水交会はと言えば、海幕に激励に訪れたとか言うことを伝え聞きいてはおりましたが、誰一人として実際に神戸に顔を出すことは無く、もちろん激励・慰問の差し入れなどが届くことも一切無し。
司令部幕僚の一人として、一般の方々による様々な温かい激励の心遣いをいただく一方で、部内関係者はこれなのか、と派遣部隊総員に対してこれ程恥ずかしい思いをしたことはありません。
(続く)
公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 公開追加
今週の本家サイトの更新は、既に公開を始めております公刊『海上自衛隊25年史 資料編』に3つのセクションを追加しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html



文字通り貧乏暇なしを地で行っておりますので、これだけの追加ですが、これでもこれまで当の海上自衛隊はもちろん、ネットや出版物などでは一般公開されたことが無いものと思います。
良く纏められた立派な図表なのですが、海上自衛隊は既に40年以上も前のこんなものでさえ何故公開しないのでしょうか? 国民の血税を使ってきたその説明であるにも関わらず。
2023年01月28日
阪神災害派遣の思い出 (7)
海自の災害派遣もその第2期に移って海を経由した給水支援がメインの一つになってきました。 そして災害派遣部隊の撤収時期は神戸市の上水道の復旧完了が一つの大きな目安になりました。
そこで、司令部の情報幕僚 (呉監第2幕僚室長) が主導し、復旧工事の進捗状況を確認するために呉監2室や呉調査隊などからの隊員を使って毎日各地の現場へ出向いて調査を行いました。
この調査により、以後の必要な神戸市の給水支援量、そしてそのための所要の補給艦などの艦艇隻数や給水支援場所の選定などの把握が可能となったのです。
恥ずかしながら、私個人としては、海上自衛隊の調査隊というものが実際の場面で活躍し、役に立つものであることを始めて目にし実感した次第です。
この調査結果は毎日地図に纏められて司令部の朝の定例会報で報告されましたが、判り易くよく纏められたもので、ある日これを神戸市役所に業務調整の説明用に持っていった時に水道局の者が 「これは素晴らしい、是非私達にも定期的にください」 と。
まあ、本来ならばこれは水道局自身が調べるのがその任務であり、それを給水支援する側のこちらに通報してくるべきものだろう、と思いましたが (^_^;
呉監2室及び呉調査隊のメンバーを主力とするチームの活躍により神戸市の上水道の復旧工事の進捗状況が詳しく把握できましたので、これにより補給艦などによる給水支援の必要性は徐々に少なくなって来ていることが具体的に判明しました。
その結果、2月29日以降は水船や掃海艇などの小艦艇による市民に対するものだけでほぼ足りるようになると判断できたことから、徐々に派遣艦艇の数を減らしつつ、3月1日には後の現地指揮は阪神基地隊司令に委任することとして呉総監以下の災害派遣部隊司令部は呉に戻りました。
しかしながら、阪基では幹部の人手が足りず心もとないと言うことで、呉監幕僚の中で私一人が阪基に残されて災害派遣の司令部業務を継続することとなりました。
そして3月6日午後に神戸市役所に出向いて神戸市長から大規模な給水支援終了の確認書を受領し、翌7日にこれを持ってHSで48日ぶりに呉に帰りました。
その後も海自としては桟橋での小艦艇による市民に対する小口の給水支援などの業務は継続しつつ、3月30日になってこれらを含む実質的な海自の災害派遣業務を全て終了。
後は陸自による倒壊家屋の残骸除去支援などが残ったものの、最終的に4月27日に兵庫県知事よりの撤収要請を受けて全自衛隊の災害派遣の終結となりました。
( 私自身はこの終結を待たずに3月23日付で海幕勤務にさせられてしまいましたので、海自派遣部隊の災害派遣詳報の下書きを作って転勤したのですが (^_^; )
ところが、この大活躍してくれた呉監第2幕僚室長、私の候校同期ですが、災害派遣が終結してすぐ後に体調を崩してあっという間も無く早逝してしまいました。 災害派遣での激務が終わり安堵したことからだったのでしょうか。 大変残念で惜しいことでした。
(続く)
2023年01月27日
阪神災害派遣の思い出 (6)
発災から1週間ほどたった経った日 (1月23日?) の夜、かなり大きな余震がありました。
この時、阪神基地隊の魚崎浜の直ぐ沖の六甲アイランドにある工場から、悲鳴のような電話がかかってきました。 「非難のために直ぐに助けに来てください」 と。
電話を代わった私が詳しい状況を聞くうちに揺れも納まってきて、相手も周りに大きな更なる被害が出ていないことから次第に落ち着いてきました。
そこでダメ押し的に 「大丈夫です、安心してください。 万一また大きな地震が発生して皆さんが危なくなった時には、直ぐに駆け付けますから」 と。
これで相手も安心したのか、最後に 「もしその時には絶対お願いしますよ」 と言って電話を切りました。
幸いにしてその後は余震らしい余震もありませんでしたが、17日にあれだけ大きな震災を身をもって味わった後ですから、少しの余震ででも動揺するのは十分理解できるところです。
それ故に、一般の市民の方々にとっては、緊迫した状況の時には自衛隊が近くにいるということだけでも、頼りになり心の支えになるものだと実感したところです。
(続く)
2023年01月26日
阪神災害派遣の思い出 (5)
発災から数日ほど経った頃のある日 (1月22日?) の朝、奥さんの体の具合が悪くなったのでどこか診てくれるところはないかと旦那さんが車に乗せて阪基までやってきました。
司令部には呉衛生隊をメインとする医療班がおり、これは主として海自派遣隊員の健康管理などが対象でしたし、震災による直接の怪我人や病人ではありませんが、急患で来られたからにはと早速医官が診察しました。
その医官の言では、心筋梗塞の疑いがありかつ妊婦さんで、至急施設が整った大きな病院に入院させる必要があるとのこと。
そこで、急遽阪基のすぐ沖に錨泊中の護衛艦 「せとぎり」 から予め待機を指示していた搭載HSを呼び、医療班のメンバーと一緒に阪基のヘリポートから病院最寄りのヘリポートまで運び、そこから手配の救急車で病院へ。
その後は病院などからは連絡もありませんでしたが、母子共に元気であったであろうことを今でも祈るばかりです。
(もしこの時のお腹のお子さんが無事に産まれていたとすると、今ではもう27歳に。 結婚して子供がいてもおかしくはないですね。)
ところでこの海自災害派遣部隊司令部の医療班ですが、発災の時に呉衛生隊長 (当時は未だ呉病院は有りませんでした) が、先に緊急出港させた38護衛隊 (とかち) と輸送艇の 「ゆら」 に続いて、22護衛隊2隻もその日からの4年毎 (当時、現在は5年毎) の定期検査・特別修理を取り止め後日に延期して神戸に応援に出す予定であることを聞きつけ、私のところへやって来て 「医療班と取り敢えずの医療品・機材を準備しましたので是非乗せていって下さい」 と。
この時私は神戸の状況の情報収集や派遣する艦艇などのことでバタバタしていましたので、ここまではとても頭が回りませんで、その申し出に 「それは助かる、ありがとう。 もちろん是非とも。 すぐに22護隊に指示するので」 と答えるのが精一杯。
結果的に、阪基で司令部や海自派遣隊員の健康管理、そして必要に応じた被災者の怪我の手当てなどに大活躍してくれました。
( かく言う私も、震災による液状化現象が乾いた後に舞い上がる細かな砂埃が半壊した庁舎のあらゆる隙間から入り込んでこれで喉を痛めて風邪を引いてしまい、2度注射や点滴などでお世話になりました。)
この医療班の編成と派出の気を利かせてくれた呉衛生隊長は、防衛医大1期生の医官として大変優秀な人物で、その後1選抜で1佐に昇任した (させた) ものの、こともあろうか当時の防衛医大の学校長自身により、さる県の大きな病院の部長職に引き抜かれて退職してしまいました。
私もその優秀さと優れた人格に前から目を付けて今後を期待していたのですが、本人にしてみれば自衛隊の医官としてよりは医学博士としての自分の将来を考えてのことでしょうし、残念ながら防衛医大の “普通のお医者さん” である教授陣 (自衛隊医官では無いし、医官ではなれない) にしてみれば、学生の頃から目をかけていた教え子を、高給を貰いながら学費などタダの4年間の研究科を終えて医学博士号取得後に (当然学費返還の対象となる義務年限の9年は既に過ぎております) 自分の顔の効くところへ引き抜くのは当たり前の様に行われていましたので (現在でも?)、これは私達自衛官にしてみれば何ともし難いことでした。
それにしても防衛医大というところは ・・・・ ではありますが。
(続く)
2023年01月25日
印海軍防空艦 『ヴィクラント』
「朝雲新聞」 で私が担当している 「世界の新兵器」 コーナーの艦艇編の20回目の記事ですが、掲載された昨年末12月22日付の同紙の見本誌がやっと届きました。
この20回目では、約16年もの建造期間を費やしてやっと昨年の9月に就役したインド海軍が正式名称 「防空艦」(ADS、Air Defense Ship) と呼んでいる国産の新型空母の1番艦 『ヴィクラント』 を取り上げました。

ただ、同艦は一応就役した形になっているとは言っても、まだまだ未成のところが多々残っており、今後とも各種の試験の成果も合わせつつ改善・改修がなされていく予定ですし、現在のところ当面搭載予定のロシア製の艦上戦闘機 Mig-29K も西側のものも含めた別の機種に置き換わることが予測されますので、最終的にどの様なものになるのかは解らないところがあります。 そして2番艦にいたっては建造はまだ始まってもおらず、その行方は全く不透明な段階です。
とは言っても、本艦では艦首にスキー・ジャンプ、艦尾にアレスティング・ワイヤーの着艦拘束装置を備え、STOBAR方式による通常の固定翼艦載機の運用が可能となっています。
排水量は満載で4万5千トンもありますので、スキー・ジャンプではなく、平甲板でスチーム又は電磁方式のカタパルト装備とする事も可能だったのでしょうが、元々の当初計画を引きずるその延長でもあり、それよりもカタパルト装備には高い技術力とその連続運用のためには動力源としての原子力機関が必要とされますので、それは改めて将来的な艦のことになるのでしょう。
ところで、当該記事では本当は本級に関連して、我が海自が現在改装中のDDH 「いずも」 型について本記事の後半で言及したの (私的にはこれの方が重要なの) ですが、残念ながら他記事との関連もあり紙幅の都合で省かれてしまいました。
端的に言えば、現在知られているところに限れば、このDDHはとてもではありませんが “(軽)空母” などと言えるものではなく、単に全くの別組織たる空自が保有・運用する Fー35B に背中を貸すだけの “航空機運搬艦” “洋上移動飛行場” に過ぎません。 将来的にいつかは、「教訓」 を得て空母らしくなっていくのかもしれませんが ・・・・
ご来訪の皆さん方は当該艦をどの様にお考えになり、そして空母というのもをどの様にご理解されておられるのでしょうか。
久々の大雪
我が家がある団地は中国山地に遮られた盆地ですので、毎年雪は多くは無いのですが、今朝は久々に深々とした雪景色です。

しかも朝8時でまだー5度。 日中の最高気温でも0度の予報です。
早朝から広島や呉に上り降りる道路はバスやタクシーも全て止まっていますので、まさに “陸の孤島” になっています。
2023年01月24日
『海上しまね』 63号
遅くなりましたが、島根の海上OB会の会報誌である『海上しまね』の今年元旦号をいただきました。

海上自衛隊の基地や部隊が無い県ですが、海自OBが活発に活動しておられ、かつこのような会報誌が出されていることは羨ましい限りです。
呉には 「呉水交会」 がありますが、ご存じのとおり似て非なるもので海自OB会とは全く異なったものですし、また 「隊友会呉支部」 に入っている海自OBも多いのですが、これは元々の隊友会は陸さんが牛耳るところですので、いずれにしても中途半端な組織です。
先日 「呉水交会」 と 「隊友会呉支部」 との合同新年互礼会なるものが行われたようですが (私は出ておりませんが)、「家族会」 やら 「婦人会」 などの会員もおり、もうゴチャゴチャになっているようですね。
海自OB会、かつての 『海上桜美会』 ように全国規模の組織が必要ですね。
阪神災害派遣の思い出 (4)
災害派遣が始まって直ぐに、私達派遣部隊司令部の幕僚には事前の連絡も調整もないままに、海幕の指示によって全国の部隊からありったけの非常用の缶詰や乾パン(ビスケット)などがどんどんと送られてきました。
それらの中で小松島航空基地や徳島航空基地などに空輸で集積されたものでは、缶詰は受け取った市民が開ければそのまま直ぐに食べられるように両基地で煮沸して神戸へ、ということに。
ところが、当然ながらそんなに大量のものを一度に煮沸できるような設備はありません。 がしかし、急いで急いで、との矢のような催促と厳命。
そこで、何と苦肉の策として高温にした浴槽に数時間漬けて、半煮えの状態で神戸へ送ったものがあったとか。
(その後、小学校などへの給食を請け負っていたところの支援が得られることになり、そこへトラックで運んで煮沸して貰うこともあったようですが。)
これらのものはグランドなどを利用した臨時のHS離発着場 (場外離着陸場) の物資集積場に空輸された他、輸送艇などの小艦艇で運ばれましたが、その後どうなったのかは ・・・・
派遣で来援する艦艇も毛布を始めとする可能な限りの支援物資を積んで来ましましたので、神戸市や芦屋市など希望するとことろに配布することになったものの、これらの中の非常用缶詰については、手を挙げてトラックで取りに来たのは肝心な神戸市ではなく西宮市のみでした。
その西宮市でも、これを受け取った後その後どうなったのかは ・・・・ 知りません (^_^;
(続く)
2023年01月23日
阪神災害派遣の思い出 (3)
私達海自災害派遣部隊司令部が呉総監に率いられて半分壊れかかった阪神基地隊庁舎に進出してから1週間ほど経った時のこと。
ある日の昼間、パトカーが1台スーっと敷地に入ってきました。 一体何事かと見ていたのですが ・・・・
「済みません、簡易トイレが並んでいるのが見えたので使わせてください」 (^_^)
考えてみれば、神戸は震災で上下水道も電気も全てやられましたので、住宅街や官公庁、商店はもちろん、工場、公園などで既存の水洗トイレが使えるところはありません。
陸上自衛隊が進出してきた避難所には簡易トイレなどが置かれましたが、警察官といえどもまさか制服を着たままで住民の人達に混ざって使うわけにはいきません。 (陸自隊員が休憩でタバコを吸っているのを見ただけで “サボっている” と非難の嵐になったくらいですから。)
「警察の方もさぞ大変でしょう。 ここなら遠慮なくいつでもどうぞ。」
で、その簡易トイレなのですが、私達が阪基に進出してきた時には、既に庁舎の裏に十数台がズラリと並んでいました。 住宅建築や工事現場などでよく見かけるあれです。
これは、阪基勤務の某係長が発災の直後に突然何を思ったのか、出入りの業者に連絡をとって “あるだけのものを直ぐに持って来てくれ” と。
結局これが阪基に司令部を置いて活動するための “殊勲甲” となりました。
人間というもの、究極の状況に置かれた時には普段の言動からは考えられない発想と行動が出来るものと思わされた次第です。
そして、組織というものは、優秀で均質な人材を揃えるだけではなく、できるだけ色々な性格や言動、能力の人も沢山抱えている方が、いざという時に思わぬ強さを発揮できるものであると感じました。
この某係長、災害派遣が終わった時にそれに値する十分な賞詞が出ていると良いのですが ・・・・ ?
(続く)
2023年01月22日
公刊 『海上自衛隊25年史 資料編』 公開追加
今週の本家サイトの更新は、既に公開を始めております公刊の 『海上自衛隊25年史 資料編』 に2つのセクションを追加しました。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/Modern_Warfare/JMSDF_Nenshi/JMSDF_25years_Nenshi_official.html


文字通り貧乏暇なしを地で行っておりますので、たったこれだけですが、モノクロ頁ですのでカラー頁よりは多少は楽なところで。
2023年01月21日
阪神災害派遣の思い出 (2)
海自補給艦による岸壁での市や企業などの給水車への給水と共に、海自給水車の巡回や各桟橋などでの在泊艦艇によりペットボトルや水タンクなどを持参する市民に対する給水支援が本格的に行われていた頃です。
阪神基地隊のある魚崎浜から奥に入った青木フェリー・ターミナル桟橋 (新明和工業の工場の近く) に横付けした15掃海隊の掃海艇が市民に対する給水支援を行っていました。

(掃海艇による市民に対する給水支援)
給水場所を桟橋の掃海艇の舷門脇に設置して、夜間も24時間体制で対応できるように待機していました。
ある寒い日の夜のこと。 お婆さんが小さなお孫さんの手を引きながら歩いてやって来ました。
ところが、そのお婆さんは
「兵隊さ〜ん、寒い中大変だねえ、ご苦労さん」
「少しだけど、これ飲んでね」
と家で温めてきたらしいコーヒー缶を数本差し出したそうです。
舷門当直員達は寒い夜にわざわざ温めたコーヒー缶を持って歩いて届けに来てくれた心遣いに感謝し、ありがたく頂戴して、
「ありがとうございます。 頑張ります。 お婆さんも気をつけてお帰りください。 寒いですからお孫さんも風邪などひかないように。 お水が必要な時はいつでも来て下さいね。」
翌朝この話しを聞いた司令部では皆が感激です。 こういうことがあるからこそ、それは災害派遣に対して他のどんなことよりも私たちが報われる、何ものにも代え難い最高の栄誉だ、と。
文字通り皆が不眠不休での災害派遣ですが、それが本当に市民の方々の役に立っているのだと実感できる出来事の一つでした。
ある時、海上幕僚長から派遣部隊指揮官である加藤呉総監に電話があり、「テレビでは陸自がトラックごと全てに “災害派遣実施中” の大きな幕を掲げて走っとる。 海自ももっとテレビに映るようなことをやれ」 と言われたそうですが、翌朝の司令部の定例会報の時、総監は私達に
「俺はそんなチンドン屋みたいなことはことはやらん。 港に白地に赤の自衛艦旗を掲げた灰色の船が並んでいる姿を市民に見せるだけで十分だ。」
「我々は真に市民の役に立つことを淡々とやる。」
と言われ、実際そのとおりに実行されました。
こういう指揮官こそが、部下はどんなに苦しくとも全幅の信頼を置いて従っていく頼もしいもの、と感じた次第です。
(続く)
2023年01月20日
阪神災害派遣の思い出 (1)
今書いておかないとこの後二度とお話しすることは無いかもしれないと思いまして、この機会に28年前の阪神淡路大震災の発災当日から海上自衛隊災害派遣司令部の一員であった当時の思い出をいくつか。
阪神淡路大震災における海自災害派遣部隊の主任務が第1段階の人命救助・不明者捜索から第2段階の神戸に対する海上からする給水支援と陸自派遣隊員に対する在泊艦艇による宿泊支援に移った頃です。
それは、冷たい雨が降るある寒い夜のことでした。
さる岸壁に停泊して陸自派遣隊員の宿泊支援に当たっている某艦の当直士官から派遣部隊司令部に電話が入りました。
「小さなお子さんを連れた家族5人が入浴させて貰いたいと岸壁に来ているのですが、どうしましょうか?」
この頃には各地の避難所で陸自による入浴施設による支援が本格的に始まっていましたので、原則として神戸市民の方々には近くのそれらを利用していただくことになっておりました。 また、市や区などでの広報でも盛んにそのように流されていたのです。
で、電話を受けた私は、
「雨が降る中、もう舷門まで来ているのだろ? 艦内は陸自隊員で一杯で通路にも雑魚寝姿が溢れていることと次からは避難所の入浴支援を利用してもらうよう親御さんに丁寧に説明した上で、一家には科員浴室ではなく士官浴室を使っていただくように。 状況を見ながら臨機応変な対応を頼む。」
岸壁で陸自派遣隊員の宿泊支援を行っていた各艦艇では、いずれの浴室も陸自隊員が24時間いつでも使用可能な状態としていましたので、某艦は士官浴室を一時的にその家族専用とし、入浴後は士官室で飲み物を出して暫し休憩してもらってからお帰りいただいたと後で聞きました。
真意をよく理解してくれ、一家に対する接遇を適切に行ってくれたようです。
災害派遣では、大規模な人数での様々な業務の遂行と共に、こういう市民のためを考えた小さなことの積み重ねが大事だと思っています。
翌朝、指揮官たる呉総監や幕僚長役の防衛部長に報告した上で、派遣部隊司令部の会報時の出席者にこの 「市民のための臨機応変できめ細かい柔軟な対応の実施」 の必要性を強調し、各部に伝えるように言いました。
海自災害派遣部隊の皆は長期間にわたり全員大変よくやってくれました。
少なくとも私が知る限りでは、この時の災害派遣で、海自に対する市民からの苦情などは一件も無かったと聞いています。
(続く)
2023年01月18日
映画 「イチケイのカラス」
13日より劇場公開が始まったようですね。
この映画の制作において、私は話しの背景となる海上自衛隊の新イージス艦なるものについてのアイデアにアドバイスさせていただきました。


それもあって、映画のパンフレットと劇場入場券をいただいております。

まあ、映画のメインとなるようなことではありませんので、ストーリーとしての流れの良さを維持することが一番でしたが。
それにしても、防衛省・海上自衛隊の広報というところは、こういう作品には全く拒否的・非協力的態度で、イージス艦の画像・映像などは一切使わせなかったとか。
2023年01月17日
今年もあの日が
阪神淡路大震災が発災して28年目の日が巡ってきました。
毎年書いておりますが、あの日からのことは、私にとっても一生忘れることの出来ないものです。
発災の朝、官舎で隣に寝ていた家内に今地震があったよと起こされてすぐテレビをつけましたがほとんど状況が判らないことから、家内に “ちょっと総監部に行って様子を見てくるわ” と家を出てからそのまま48日間戻らず。
翌々日、呉地方総監の決心により私達海自災害派遣部隊司令部は現地に進出し、半分壊れかかった阪神基地隊庁舎で、呉監防衛部の幕僚を主とした僅かな人数で一人何役もこなしつつ、椅子に座ったまま2〜3時間の仮眠がとれるかどうかの日々が続きました。
そして、阪基所属部隊や集まってきた海自派遣部隊の隊員一同と一緒になって、出来る限りのことを一生懸命やったつもりです。
それでも、もっと一人でも多くの人を助けられたのではないか? もっと多くの事ができたのではないか? といつも思い続けています。
あの大震災で、お亡くなりになられた方々、被害に遭われた沢山の方々のことを思うと、発災の日から48日間、現地に進出して46日間災害派遣に携わった者として、そう思わずにはいられません。
震災でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りしますと共に、被災された沢山の方々のご多幸をお祈りいたします。
そして、今では見事に復興した神戸を中心とする阪神地区ですが、今後も益々発展して行きますことを祈念して止みません。
頑張れ、神戸 !
2023年01月15日
旧海軍の座礁事故摘録
海自の護衛艦 「いかづち」 が普通では考えられない場所と状況で座礁事故を起こしてしまい航行不能となって因島の造船所に曳航されたようです。
ところで、旧海軍においは、明治 〜 大正期には今と違って海図はまだまだ不正確ですし、何よりもレーダーも無ければCICの補佐も無いような状況において、日本及び周辺海域において沢山の座礁事故を起こしております。
旧海軍でそれらの座礁事故から明治30年 〜 大正6年にかけての100件を選んでその事故摘録を纏めたものを作成しており、これが昭和35年に海上自衛隊第1海上訓練指導隊によって 「艦艇長講習参考資料」 として復刻されています。

ただし、旧海軍においてどこが纏めてどの様な形で出したものかは不明ですし、またこの1FTGが復刻したものも現在では海自に残っているのかどうかも判りません。
この方面に関心のある方がおられましたら、どうか探してみてください。
それにしても今回のこの 「いなづま」 の艦船事故、本当にお粗末極まりないですね。
当ブログがスパム?
私の当ブログでの記事を Facebook に掲載する時に同じものをもう一度書くのでは二度手間にもなりますし、Facebook でご覧いただく方々にも当ブログの関連記事も合わせてお読みいただけるように、これまで Facebook ではブログ記事のリンクを掲載してきました。
ところが、一昨日の13日になって、突然と言うか唐突に当方ブログのリンク掲載が “コミュニティ規約に違反” した “スパム” だと言ってこれまでの全てが非表示になってしまいました。



もちろん何が、何処がスパムなのかについての説明などは一切無しの一方的なもので。
当然ながら直ちにこの全ての措置について不同意をFB運営グループに送りましたが、このFB運営グループと言うのは全く信用・信頼できないところで、これまでに他のことでも度々意見書を送ってきましたが、何らの反応も措置もありませんでした。
おそらく今度も何を言っても、と言うところなのでしょうが・・・・
したがって、取り敢えずはFB運営グループの反応・回答待ちをしつつ、今後どうするかを考えています。
2023年01月12日
男のロマン? まだ見ぬ未来の伴侶に (後)
指輪以外には寄港した各地で色々なものを買ったのですが ・・・・
◎ スカーフ
英国でだったかフランスでだったかスカーフを数枚買いました。 こういうものは男の私にはどういうものが良いのかなどはサッパリ判りませんので、カラフルで見かけが良さそうなものを。
これはまだ家内が2つ持っていますが、結婚以来一度も着けているのを見たことがありません。 好みに合わなかったのかな (^_^;

◎ 香水とその石鹸
これも男の私には判りませんので、ともかく名が知られていたものを色々と。
沢山あったのですが、娘達も幾つか持って行ったようで、今でも残っているものはセットの箱も含めてこれだけのようです。

◎ カメオのブローチ
ナポリに寄港した時、伊海軍の売店に大きなカメオのブローチが並んでいました。 大変安かったので数個買い求めましたが、召し上げられたりなんだりで、これは家内と結婚するまでに全て無くなってしまいました (^_^;
◎ ウェッジウッドのコンパクト
これはロンドンで買った記憶はあるのですが、なぜか帰国後どうなった (どうした) のか全く記憶がありません (^_^;
ウェッジウッドの代表的な淡いブルーの地に白のレース模様があるやつで、大変に高かったはずなんですが ・・・・
◎ ワニ皮のハンドバック
最後の寄港地のペナンで、これで帰国だからと残ったドルを全て使った時の一つです。
ワニの背中のゴツゴツした部分が大きく飾られているものですが、逆にそれだからなのか安かった記憶があります。


これは帰国したら母に召し上げられてしまいましたが、今ではその遺品を兼ねて本来の家内の手元に。 ただ、こういうものは和服などでかしこまった様な場でないと合わないようですね (^_^)
以上、遠い昔のことを思い出すままに。
現在では女性の皆さんも気軽に観光やショッピングなどで海外に遊びに行ける時代になりましたし、国内でもブランド店やネットなどで簡単に色々買えますので、別に珍しいものでも何でもないものばかりでしょうが。
それに何より変動相場性になり、現在でも1ドル=135円位ですので、当時は単純に円換算でも今の倍以上でしたので。
(終り)