2017年03月26日

加藤友三郎研究会セミナー


今日は昨年末に発足した 「加藤友三郎元帥研究会」 の第1回セミナーでした。

講師は自衛艦隊司令官もやられた勝山拓元海将で、演題は 「加藤友三郎 超初級セミナー」 (^_^)

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1時間の講演でしたが、内容はその名のとおり友三郎の経歴を中心としたもので、研究会発起会での加藤健太郎氏の話しを聞かれなかった方々にはピッタリのものと言えるでしょう。

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会場のスペースの関係で約70名の募集に対し、これを少し越える参加者でした。 前回の発起会では海自の現役の人達も大分駆り出されておりましたが、今回は現役はゲストの第1術科学校長のみ (^_^; 

講演の後は、お茶とお菓子での茶話会。 一般からの参加者が多かったこともあってか、顔見知りは数名だけでした。 やはり海自OBや現役主体ではなく、色々な人達に興味を持って貰えるのは良いことと思います。

さて課題はこれからですね。 研究会の活動は呉と東京の2個所を中心に進められるようですが、今後どの様に発展させていくのか楽しみです。

事務局を担当していただいている大之木ダイモの皆さんも、お疲れ様でした。

posted by 桜と錨 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年03月22日

護衛艦 「くらま」 除籍


本日護衛艦 「かが」 の就役と入れ替わりで 「くらま」 が除籍となりました。 まあしかたがないとはいえ、私としては 「かが」 の就役ばかりが注目されてこちらに目が向かないのは少し淋しい気がします。

「はるな」 型に引き続いて建造された 「しらね」 型ですが、ある意味 「はるな」 型よりはこちらの方が何かに付け表に出てきましたので知名度は高かったように思います。 まさに海上自衛隊の一時代を画した艦と言えるでしょう。

折角ですので、こういうものをご紹介。 「くらま」 の艦内配置図の2枚です。 除籍になりましたので機会を見て残りも合わせた一揃いを公開したいと考えていますが、さてどのような方法が良いのか ・・・・ ?

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2017年03月17日

「九三式魚雷」 について (4・終)


既にお話ししたように、九三式魚雷は燃料の噴射や加熱装置の冷却などに九〇式魚雷までの真水に替えて海水を用いました。

このためその管系統に塩分が付くことはもちろん、加熱装置及び主機のシリンダー内には塩分が析出するので、これらの対策が必要になりました。


この塩分除去のために考えられた方法は次の2つです。

(1) 二塩化亜鉛

燃料室から加熱装置までの管系統では、海水中の塩分はそれほど気にすることはありませんが、問題なのは加熱装置での燃焼以降です。

特にノズル部分に塩分が貯まって詰まることで、これは致命的となります。

そのためまずアルミの粉を吹き付けてみて適当なノズルの形状を探ろうと実験してみましたが、結局これは上手く行きませんでした。

そこで考え出したのが、二塩化亜鉛 (ZnCl2) を少量燃料に加えることにより塩分の析出を減らすことでした。

この二塩化亜鉛を用いる方法は、試製魚雷F (駆逐艦用タービン魚雷) の開発の時に担当の成瀬造兵中佐のアイデアによって解決されたとされています。


(2) 主機のシリンダー

加熱装置で発生した燃焼ガスをこのシリンダー内に吹き込むことにより、その膨張によりピストンを動かしますので、最終的にここに海水の塩分が析出することになります。

これの全てを残ったガスと共に外に排出することは出来ませんので、次第にこの中に貯まってくるわけですが、シリンダ・ヘッドを銅板製にして適切な形状とすることによって、この銅板の変形によってここに析出物を受け入れる余積を作ることで解決しました。

これは試製魚雷庚の段階で解決しております。


なおこれら2つの塩分除去法については、九五式魚雷でも採り入れられています。

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・・・・ 今回はこの塩分除去のお話しをしようと思って始めましたが、それにはまず機関系統のことを、ということで長くなってしまいました。

主機のことに限らず、舵機や操舵関係、爆発尖などなど魚雷のメカのことは沢山話題がありますが、これらは後日また機会があればということに。

う〜ん、こうして書いてくるとメカを中心とした旧海軍の魚雷開発史を纏めてみたくなってきますね。 どこかスポンサーになってくれるところはありませんかねえ ? (^_^)


(この項終わり)

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「九三式魚雷」 について (3) :

posted by 桜と錨 at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年03月16日

久々の軍歌三昧


昨日は確定申告のために街に出ました。

最終日でしたが、かなりの人で結局約1時間半の順番待ち。

それにしても何というか、決まり切ったものだけの内容なら電子申告でも何とかなるのでしょうが、いつもと違うものが含まれると、記入要領を読んでもさっぱり判らず (^_^;

一つ一つ担当の職員の説明を受けながら、その度に “ふ〜ん、そいういことなの” と。 そんなことはごく普通の市民に判るわけがない、と思いながら作成しましたが、一通り終わるまでにかれこれ1時間以上。

ただ、いくらかの納付は覚悟しておりましたが、何とかゼロ。 これは一安心でした。


で、夕方になってしまいましたので、先日 Facebook で紹介いただいた 「三水会」 という軍歌を歌う集まりの月例会に行ってみました。

小さなスナックを借り切ってですが、今回は約20名程でギリギリ一杯でした。 参加者は海自OBだけではなく一般の人達も多数おられ、女性も数名。

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この秋には月一連続開催の200回目になるそうです。 凄いですね。

驚いたのは、2時間、各自で自分が歌いたい曲を端末から選んで行きますが、カラオケは全く途切れることがなく次々と軍歌が流れます。

その間、思い思いに一緒に歌ったりお喋りをしたりで、退屈することはありません。 初参加の私も楽しく混ぜていただきました。 そして最後は定番の 「同期の桜」 を全員で歌ってサッとお開き。

そしてこのお店はいつもママさん手作りの料理が沢山おいてあり、かつどれも美味しいことで有名なところです。 これをつまみの一杯もまたなかなか。

う〜ん、これなら時々は顔を出してもよいかも (^_^)
posted by 桜と錨 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2017年03月15日

友、遠方より来る


もう20年近くのお付き合いになる友人が、ご夫婦で札幌からの旅行の途中にわざわざ寄り道をして来訪いただきました。

とは言っても、観光地ではありませんので、あまりご案内するところは無いんですよね〜

それでもここだけはまず外せないでしょう。 定番の艦隊桟橋へ。

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そして夜は夜で、これまたこれと言って遠来のご夫婦をご案内するような美味しいレストランなどがないんですよね〜

取り敢えず地元のジャンクフードということで、呉名物の焼き鳥屋さんへ。 そして最後に〆としてこれも呉名物の屋台村へ。

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よほどの海自・海軍マニアの人ならともかく、なかなか楽しんでいただけることろが無くて申し訳無し。

これに懲りずにまた機会があればご来訪ください。 次回は少しゆっくりと時間を取っていただいて、江田島見学とか広島湾クルーズなどをしましょう。


それにしても、最近は海自の広報担当も段々とお役所仕事になってきましたねえ。 週末の定期公開とか何かのイベントなど決まり切ったもの以外はOBでもほとんど 「ノー」

私はOB風を吹かせて後輩の高級幹部達に圧力をかけるようなことはしたくありませんので、それならそれで無理を言うつもりはありません。

がしかし、どうも地道なPRへの配慮には欠けるような ・・・・ ?

posted by 桜と錨 at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2017年03月12日

「九三式魚雷」 について (3)


2.「一液」

さて、関係者の大変な苦労により誕生した九三魚雷ですが、実用化されればされたで色々欲が出てきます。

前回でお気づきの方がおられるかも知れませんが、その一つが 「第一空気」 です。


前述のとおりこれは乾燥空気ですので、その主成分のほとんどは窒素であり、九〇式魚雷時代と同じく魚雷の推進には直接の役には立ちません。

そして純酸素と混ざるものですから、これ空気の質の管理と気室の構造、そして空気圧の適切な保守整備など色々面倒なことが伴います。

そこでこの窒素を他の不活性の液状のものに置き換えて主機を起動できるようになるならば、第一空気そのもの (とそのタンク) が不要となります。

つまり、純酸素だけを使用し、主機の起動の際には窒素に変わるその液体を調和器までの酸素の経路上に置いておいて、酸素通過時に霧吹きの要領でこれに混ぜれば良いのではとのアイデアが出ます。

そこで各種の実験によって四塩化炭素 (CCl4) で可能である結果を得ましたので、第一空気室を無くして、この四塩化炭素の液溜まり設けました。 この四塩化炭素を 「一液」 と呼びます。 発明は横須賀海軍工廠造兵部から呉海軍工廠魚雷実験部に移った川瀬技師とされています。

ただし元々の第一空気は操舵装置の動力源としても使用しておりましたので、今度はそのための空気が必要になり、「操舵空気室」 というボトルが置かれました。 もちろん第一空気のような厳密な質の管理と機構は不要ですので、普通の圧縮空気の扱いで良いわけです。

下の略図がこの 「一液」 方式にしたものです。

Torp_type_93_draw_s.jpg

戦後になって一部において、発射直後の航走中に第一空気による航跡が数百メートル発生するため、これを無くすために四塩化炭素を使用したとする向きがありますが、もちろんこれは副次効果であって主目的ではありません。

その一方で、開戦後の戦術状況の変化により用兵者側から射程よりも炸薬量増加の要望が出された結果、これにより炸薬は780kgとなった反面、酸素室の容量が元の980リットルから750リットルとなり射程は49ノットで1万5千メートルとなりました。

これが昭和19年2月13日内令兵第10号により兵器採用された 「九三式魚雷三型」 です。

また同じ酸素魚雷で九三式の小型版と言える潜水艦用の 「九五式魚雷」 でも同様にこの 「第一空気」 を 「一液」 方式に替えたのですが、実用化は九三式よりこちらの方が早く、昭和18年9月1日内令第89号により 「九五式魚雷二型」 として兵器採用されています。


ところが、戦後になってこの 「一液」 である四塩化炭素を、海水使用による酸素の管系統及びエンジン内部に固着する塩分の除去のためであったとする説を唱える人が中にはいます。

確かにこの塩分の問題は、九〇式での真水使用を九三式で海水に替えたために生じたもので、その解決が必要なことではあります。

しかしながら、これは正常に航走を開始した後に生じることですから、一液の目的を考えていただければその塩分除去の役割は無かったことは明らかですし、そもそも四塩化炭素そのものにはその除去作用は有りません。

ではこの塩分除去はどうしたのでしょうか? これについては次にお話しします。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (2) :

posted by 桜と錨 at 23:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2017年03月11日

「九三式魚雷」 について (2)


1.機関系統の概要 (承前)

(2) 九三式魚雷

九〇式のように圧縮空気を用いる方法では、空気の組成の大部分を占める窒素は魚雷の推進には役に立たずにそのまま排出されるわけですから、この窒素を除いた純酸素を用いることができれば、機関系統全体の効率は格段に向上することになります。 これが酸素魚雷の原理のメインです。

下図が 「九三式魚雷」 の機関系統の略図です。 これも極めてシンプルにしておりますので、先の九〇式と比べてみて下さい。

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九〇式までの圧縮空気を純酸素に置き換えましたので、窒素が無くなっただけ気室の容量を小さくでき、逆に容量が同じなら燃焼持続時間を長くし航続距離を大幅に伸ばすことができます。

しかしながら、純酸素は摩擦や熱で簡単に爆燃してしまうものですから、大変に危険でかつ扱い難いものです。

このため主機の起動時からいきなり100%の濃い酸素を使うわけには行きませんので、どうしても最初だけは空気が必要になります。 それも単なる圧縮空気ではなく水分と油分を取り除いた乾燥空気です。

そして主機を起動してから徐々に濃度の高いものにしなければならず、このため圧縮空気の小さなタンクが設けられています。 ここがこの酸素魚雷の最大のミソになります。

旧海軍では酸素魚雷であることを秘匿するために、この起動用の空気を 「第一空気」 (一空)、純酸素を 「第二空気」 (二空) と呼びました。

そして九〇式では燃料の噴射に真水を用いていましたが、酸素を使うことにより射程距離が長くなるとそれだけ大量の真水 (= 大きなタンク)が必要になりますので、これを海水に置き換え、海水を取り込むポンプを装備することにしました。

最初に起動弁を開いておき次いで発停装置を開くと、まず第一空気 (乾燥空気) が調和器、加熱装置経由で主機に送られてピストンを起動します。

そして第一空気室の圧が第二空気の酸素の圧より低くなると、不還弁によってその分だけ第二空気室から第一空気室に酸素が送られ、次第に濃度の高いものとなります。

また、第一空気の一部は緩衝器に送られて中の水を押し出し、この水が燃料室の燃料を分離器を通して加熱装置に送り出します。

主機が回転を始めると海水ポンプが運転され、海水が緩衝器に送られます。 緩衝器では空気 (次第に酸素) の圧と釣り合うと、最初の真水に続いて海水が燃料室と加熱装置に送られます。

加熱装置には逐次酸素濃度の高い空気と燃料及び水が送り込まれますので、頃合いをみて火管で点火し熱走に移ります。

緩衝器は海水ポンプが十分な圧を作り出すまでの間燃料室と加熱装置に真水を供給することと、海水圧を調和器の圧とつり合うようにバランスをとって脈動を防止し 、余分な海水を海中に排出する役目です。

また燃料室にある分離器は、魚雷がローリングしても最後まで燃料を送り出すためのものです。

そして加熱装置での燃焼後に残るのは、海水の塩分などわずかなもの以外はほとんどが二酸化炭素と水分です。 この二酸化炭素は水に極めてよく溶けますので、第一空気を使用する航走初期を除けば排出ガスとしてほとんど残ることのない、ほぼ無航跡とすることができます。 この点は魚雷として大きな利点になります。 もちろんこれは酸素魚雷とする主目的ではなく、純酸素を使うことによる副次効果ですが。

これらによって、九三式魚雷は520馬力、炸薬量490kg、49ノットで2万メートル (九〇式は炸薬量376kg、46ノットで7千メートル) のものとなりました。 当時の列国海軍の魚雷に比べ格段に優れた性能です。


・・・・ と理屈は簡単なんですが、酸素は油分や摩擦を嫌いますし、気密保持のためのパッキンは使えない、適切に燃焼させないとすぐに爆燃を起こす、などなどその対策に大変なものがあったわけです。

例えば、加熱装置内で燃焼が終わらなければ、加熱室下部や弁が炎で焼かれますので、酸素、燃料、海水それぞれの噴霧器の構造に細心の工夫が必要になります。

ここまでの開発経緯も興味深いものがありますが、詳細はまた別の機会として今回は省略します。


この酸素魚雷の開発は昭和5年に艦政本部から呉海軍工廠に実験通牒が出され、大八木造兵中佐が研究・設計に当たっておりましたが、昭和7年に試製魚雷庚となって試作され、これが九三式魚雷の予備実験になったと言われています。

そしてまず巡洋艦用に九〇式を酸素化したものを本格的に開発することとなりました。 これが試製魚雷Aで、担当は艦政本部の朝熊造兵中佐と楠技手でした。

昭和8年 (皇紀2593年) に発射実験を行って 「仮称九三式魚雷」 となり、昭和10年11月28日内令兵第50号によって 「九三式魚雷一型」 として兵器採用されました。

とは言っても、兵器採用後に各部の色々な手直しや改善を加えて、実際に部隊に配備されたのは 「九三式魚雷一型改二」 です。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (1) :

「九三式魚雷」 について (3) :

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2017年03月10日

「九三式魚雷」 について (1)


実用酸素魚雷として旧海軍が世界に誇った 「九三式魚雷」 のお話しです。

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とは言っても、今回はその開発経緯や性能要目、用法と言ったことではなく、ちょっとマニアックにエンジン系統のメカについてです。

でもここにご来訪の方々にはまさか酸素魚雷の燃料がその酸素である思っておられる方はおられないと思いますが ・・・・


1.機関系統の概要

(1) 九〇式魚雷

まずは酸素魚雷はそれまでの圧縮空気を使ったものとどこが異なるのかを掴んでいただきたいと思います。

そのため圧縮空気を使用した代表例として、「九〇式魚雷」 を例にしてお話しします。

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ご存じのとおり、この九〇式魚雷は 「試製魚雷丙」 として開発が始められた24インチ (61糎) のもので、昭和5年 (皇紀2590年) に 「仮称九〇式魚雷」 となり、昭和8年に兵器採用されたのち特型駆逐艦を始めして艦隊の巡洋艦及び駆逐艦に逐次搭載され、九三式魚雷出現までの旧海軍の主用魚雷となったものです。

下図がその九〇式魚雷の機関系統の略図です。 説明のために極めてシンプルなものにしてあります。

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初期の圧縮空気だけによるいわゆる冷走魚雷や電池魚雷などを除くと、旧海軍の熱走魚雷の燃料は基本的に 「ケロシン」 (kerosene) です。 これを利用したものがジェット燃料やロケット燃料などして使用され、また石油ストーブで使われる軽油もその一派生物ですので皆さんよくご存じと思います。

ケロシンは石油の分留成分ですから、基本的に炭化水素を主成分とする無色の液体です。 これを空気と混ぜ合わせて燃焼させ、発生するガスの圧力によって主機(もとき、エンジン)のピストンを作働させて、そのクランク軸によって推進軸を回転させることになります。

いわゆるレシプロ・エンジンで、九〇式では2気筒復動式横型のものが使われており、これによって413馬力の推進力を得ています。

魚雷が発動されると、まず気室の圧縮空気が調和器から加熱装置 (燃焼室) 経由で主機のシリンダーに送られ、この空気圧によってピストンを発動します。

この主機の発動に併せて調和器から圧縮空気が清水室に送られ、この空気の圧力により真水が押し出されて燃料室に入り、燃料を加熱装置内に噴霧します。 そして火管によってこの燃料と気室からの空気に点火し、その燃焼ガスの膨張圧によって主機を運転します。なおこの真水の一部は加熱装置の冷却にも使用されます。

調和器は主機の回転状況をフィードバックしていますので、これにより起動から点火までの遅動を設定できるため、冷走 (燃料に点火せず圧縮空気だけで主機が回ること) や過熱の発生を防ぐことができます。

そして、設定された雷速に応じた燃料の濃さ(即ち清水室に入る圧縮空気の圧力)とそれに応じる気室からの空気量となるように調節する機能を持っています。

また圧縮空気は操舵装置の動力源ともなりますので、気室は容量の大きなものが必要となり、このため魚雷の内部容積の制約から、航続距離、雷速と弾頭の炸薬量との兼ね合いの問題が生じるわけです。

(この項続く)

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「九三式魚雷」 について (2) :

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2017年03月06日

艦載砲と度量衡 (後)


大正6年に旧海軍の艦載砲の名称は全て 「センチ」 で統一されました。 しかしながらこれは実口径に近い切りの良い値を採用しました。

例えば元々の口径で14吋 (355.6ミリ) は36糎、3吋 (76.2ミリ) は8糎と言うようにです。

ところがこの大正6年に兵器採用された 「四十五口径三年式四十一糎砲」 はメートル法により設計・製造されたため実口径が410.00ミリであったわけです。

このためこの直後にちょっとした問題が起きることになります。

そうです、大正10年のワシントン海軍軍縮会議によって戦艦の主砲の口径が16インチ (406.4ミリ) 以下に制限される見込となり、条約成立の暁には厳密には条約違反になってしまいます。

当の造兵・用兵者達からすれば “何を今更” ということですが、ヤード・ポンド法を使用する米英の主導であってみれば致し方ないことではありました。

現実的には単なる度量衡の違いによる誤差の範囲とも言えるのですが、旧海軍ではあらぬ誤解を受けないようにするため、大正11年3月29日内令兵第9号をもって名称のみを 「四十五口径三年式四十糎砲」 に改めたのです。

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まあ、姑息といえば姑息な方法なのですが (^_^;


そして大正6年からのメートル法による艦載砲の開発は、のちにもう一つ大きな問題を生じることになります。

それが重巡洋艦や空母 「赤城」 「加賀」 の主砲として搭載された 「五十口三年式二十糎砲」 です。 この砲は名称は8インチと言いながら、実口径は203.2ミリではなく、 200.00ミリで設計・製造されたものです。

何もなければこれはこれで良かったのですが、先のワシントン海軍軍縮条約において重巡洋艦の主砲は8インチ以下とされ、このため以後の各国海軍の重巡洋艦は条約制限一杯の8インチ砲となることが予期されることになりました。

たかだか3.2ミリの差と思われるかもしれませんが、これによって砲弾重量は約110kgと約126kgで16kg、即ち1.5割もの差となるのです。 これは更に続くロンドン海軍軍縮条約によって保有量の制限を受けたことにより兵力量に劣る旧海軍にとっては死活問題であったと言えるでしょう。

そのため元の二十糎砲の内径を削って正8インチとし、昭和6年4月8日の内令兵第3号をもって 「五十口径三年式二号二十糎砲」 としたのです。

もちろん、砲の口径を少し拡げただけで済む問題ではなく、砲弾や装薬も新規に開発し直しであり、またこれに合わせるために装填機や揚弾薬機はもちろん、弾火薬庫の改造も必要になりますので、大変な手間暇を要する後戻りとなりました。

加えて元の20糎砲弾及び装薬の在庫が大量にあったため、これの消耗のため改造後の「赤城」「加賀」では砲廓砲は二号砲に改装されないままとなりました。

後知恵にはなりますが、41糎砲の時のように当初から210.00ミリ、あるいは205ミリで開発する手もあったのではないかと ・・・・


さてここでご来訪の皆さんにお尋ねします。

「特型」 駆逐艦以降に搭載された 「五十口径三年式十二糎七砲」 及び太平洋戦争期でも各艦艇に広く搭載された 「四十口径八九式十二糎七高角砲」 ですが、なぜ 「十二糎七」 という中途半端な (と言うより正確な) 呼称になっているのでしょうか?

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(平成29年3月8日追記):

そうです、「特型」駆逐艦に搭載された 「十二糎七」 という口径の砲は、ロンドン条約によって駆逐艦の主砲が5.1インチ (129.54ミリ) 以下に制限されたため、その限度で開発されたものです。

ただし、フランスは軍縮会議の時に既に130.00ミリを搭載した 「L'Adroit」 級を保有しており、その主張により当初案の5インチから5.1インチに変更されました。

条約ではフランスは部分参加に止まったものの、旧海軍もこの130ミリでも良かったと言えますが、米英がヤード・ポンド法による砲を搭載するであろうことから正5インチでも良いと判断されたものと考えられます。

この砲は大正13年に 「一三式十二糎砲」 として兵器採用されましたが、やはり明治期から続く安式十二糎砲 (実口径120.00ミリ) 系列のものとは区別する必要があり、また 「十三糎」 では条約上誤解を生じるおそれがあると判断されたため、結局昭和4年11月13日になって内令兵第2号により 「五十口径三年式十二糎七砲」 という実寸に合わせた中途半端な数値のものに変更されたのです。

また八九式高角砲になぜ実績のない5インチが採用されたのか詳細は不明ですが、平射砲を改造した8糎や12糎より威力の大きなものが要求された結果と考えられます。

この砲も 「三年式十二糎七砲」 に合わせて昭和7年2月6日内令兵第6号により 「四十口径八九式十二糎七高角砲」 として兵器採用されました。


さて最後に、もう一つこの呼称法で例外があるのにお気づきと思います。

そうです 「最上」 型軽巡洋艦に装備された 「六十口径三年式十五糎五砲」 です。 これも十二糎七砲と同じで、ロンドン条約により軽巡の主砲が6.1インチ (154.94ミリ) 以下に制限されましたので、こちらは限度一杯の155.00ミリのものを開発しました。

厳密にいうと0,06ミリの超過ですが、そこは換算上と設計・製造上の誤差の範囲ということであり、またこれも同じくロンドン軍縮会議の時に既にこの155.00ミリ砲を搭載したフランス軽巡 「Duguay-Trouin」 型が就役しており、フランスの主張により主砲の口径制限が6インチから6.1インチに修正された経緯がありますので、問題はなかったわけです。

名称も 「十五糎」 は既に6インチのものがありますし、「十六糎」 では条約制限をオーバーした名称になりますので、この 「十五糎五」 という実口径に合わせたものとされました。

なお余談ですが、この砲は射弾精度が大変に良好なため海軍部内では評価が高かったのですが、当初の計画どおり後に8インチ砲に換装されております。

換装後は 「大和」 型の副砲や 「大淀」 の主砲として転用されてはいますが、それにしても何故始めから換装するつもりのものをわざわざ新規に開発・製造したのかは疑問の残るところです。

(この項終わり)

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「艦載砲と度量衡 (前)」 :

「艦載砲と度量衡 (中)」 :


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艦載砲と度量衡 (中)


さて艦載砲に戻ります。

度量衡ばかりでなく、制度というものが後追いになることは世の常です。 これは艦載砲の世界でも例外ではなく、「メートル法条約」 が出来た時には既に滑筒砲から旋条砲へと進んでしまっておりました。

したがって旋条砲の口径も先にお話ししたように砲弾重量のポンド表記や砲身重量のトン表記が使われていました。

しかしながら、「メートル法」 使用となったからと言って、そう簡単に規格を変える訳にはいかないことはご理解いただけるでしょう。

当時は砲と弾薬がセットになって購入されるのが普通です。 状況によってはこれに予備品や弾薬の追加が行われました。

そうなると、多くの国で使用されている砲の場合には、度量衡がメートル法に換わったからと言って、それに応じて新たに設計からの全てをやり直すなどのことはできません。

例えば、有名なホッチキス社の3ポンドや6ポンドの速射砲の口径はメートル法換算で47ミリと57ミリですが、既に世界各国で広く使われており、今更砲の規格を変更したり新たに口径50ミリや60ミリを砲を設計することは生産及び流通上からしても困難なことです。

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( ホッチキス社製の3ポンド速射砲 )

したがって砲や弾薬そのものはそのままにして、同社のパンフレットでは1885年まではこのポンド表記だったのものを、1887年版では手っ取り早く、3ポンド砲は47ミリ砲、6ポンド砲は57ミリ砲と両方並記することになりました。

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( 1887年版の保社版フレットから )

同様にして、英国以外の欧州各国ではメートル法で表記にする場合は中途半端な数字の艦載砲がこの後も残ることになったのです。


では旧海軍の場合はどうだったのでしょう。


明治維新によって新たに海軍が創設された時、その艦艇は元幕府や各藩が各国から購入したものばかりで、搭載する砲も実に種々雑多なものでした。

明治3年に 「兵制之儀」 が定められて海軍はイギリス式とすることとなりましたが、かと言って当時は国内で砲を製造する能力はありませんので、当分の間外国製を導入するしか方法がありません。

そこで艦載砲の統一の必要性から優秀なクルップ砲を多く採用しましたが、このクルップは比較的早期にメートル法へ移行しておりましたので、必然的にこれに従ったものが多くなりました。

日清戦争前に清国海軍に対抗するために建造した三景艦も、その主砲にフランス・カネー社の32センチ砲を採用しましたが、これもメートル法で設計されたものでした。

そして副砲には優秀な速射砲が求められたことから、英国アームストロング社のものが選択されましたが、これは本来の口径4.7インチ (119.38ミリ) ではなく当時英国に派遣されていた山内万寿治によってメートル法による口径120.00ミリの特注品となっています。

しかしながら、その後は戦艦などは建造技術が優秀な英国への発注が多くなり、このため艦載砲も同一である方が有利であると考えられてアームストロング社、次いでビッカース社のものが採用され、そしてこれらの技術導入による国産化においても必然的にヤード・ポンド法によるものとなりました。

これによって明治35年には海軍省達第13号によって旧海軍で用いられる度量衡法の内、艦船・機関・兵器及び艤装に関するものは英国式によることと定められたのです。


ところが、その後 「海軍度量衡調査会」 を設けて世界の趨勢やそれぞれの度量衡法の利点欠点などを再度調べ直し、その結果を踏まえて大正2年には海軍省達101号をもって兵器に関する使用単位はフランス度量衡法を用いることに変更されました。

そして更に大正4年の海軍省達第99号ででは、大正6年度以降新製する兵器は全てこのフランス度量衡法により製造することとされました。

これにより世界に先駆けて採用することとされ、また初の全国産大口径砲となる 「陸奥」 「長門」 の16インチ砲も、全てメートル法により設計・製造されて実口径410.00ミリの 「四十五口径三年式四十一糎砲」 として大正6年7月17日に内令兵第10号をもって兵器採用されたのです。

また併せて大正6年10月5日には内令兵第17号をもって砲術長主管兵器の名称改正が行われ、全て従来の 「吋」 呼称から 「糎」 呼称に変更されました。

IIJN_Gun_Rename_T06_s.jpg
( 左クリックで拡大表示 )

もちろんこれは単なる呼称の話しですから最も切りの良い数値で近似されたもので、実口径が変わったわけではありません。

したがって実口径が必要な時には性能要目表などを見ることになりますが、造兵者あるいは砲術専門でもない限り、通常はこれで全く問題もなかったわけです。


う〜ん、はやり2回では終わりませんでした (^_^;

(この項続く)

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「艦載砲と度量衡 (前)」 :

「艦載砲と度量衡 (後)」 :

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2017年03月04日

艦載砲と度量衡 (前)


これも以前某所などで出た話題ですが、何故155ミリとか150ミリといった口径の砲が出来たのかということでした。

結局のところ、残念ながらどこも最後まで度量衡とそれに伴う設計や製造機器などのことは出ずに終わってしまったようです。

そこで艦載砲の口径について、かつての砲弾の重量に基づくポンド表記からインチやミリメートル表記への変遷について少し振り返ってみたいと思います。


ご存じの通り、初期の艦載砲においては砲身は青銅製又は鋳造の前装滑筒砲であり、砲弾は球形実弾でした。

したがって、砲の大きさは砲弾の重量 (例えば40ポンド砲)、あるいは砲身そのものの重量 (例えば80トン砲) によって表されてきました。

砲の筒内も、そして砲弾も、それ程精密に作られていた訳ではなく、個々ものによってそれなりの誤差があり、また射耗あるいは錆によっても変わって来ました。

ですから、その都度各砲のその時の実際の筒径に合うサイズの砲弾を選んで各砲側などに準備していました。 その程度のことで良かったわけです。

実際の射撃では、砲弾の前後に詰物を入れ、発射ガスが砲弾と筒内との隙間から逃げないようにすると共に、動揺などにより砲弾が転げ出ないようにしていました。

しかし、射程を伸ばすために砲弾は次第に長軸弾となり、そしてその安定飛翔のために筒内には施条が施されるようになってきました。 また、装薬 (発射薬) の発展もあって、砲身も次第に積層砲、そして鋼線砲へと進歩してきます。

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艦載砲のこの辺の変遷については本家サイトの次の記事にありますので参照してください。

この艦載砲の発展に伴い砲及び砲弾の製造・加工は次第に精密なものが要求されるようになり、そのために工作機械や治具・工具も精密・正確なものが必要となってきました。

ここに来て、それら全ての規格を揃えるために各国で度量衡の制定とそれに従った工業体制が生まれてくるわけです。

もちろんこれは艦載砲に限ったことではなく、産業革命による工業生産全般について言えることです。

元々欧州大陸各国では 「ドイム」 (duim、兌母) という尺度を使っていましたが、これは各地域・国によって同じ1ドイムでも多少異なったものでした。

このため1799年になって共通の尺度 「エル」 (ell、會爾) が定められました。 これは産業革命による欧州域内における工業製品流通上の必要性から来ていることは論を待ちません。

そして1875年 (明治8年) になってパリで開催された国際度量衡総会で採択された 「メートル法条約」 へと繋がるわけです。

これは欧州大陸諸国で採用されましたが、一人英国のみは従来からのインチ・ポンド法にこだわり続けました。

10進法に比べると、人間の感覚からすれば12進法というのは極めて効率が悪いように思いますが、これは大国の威信と長年の慣れからくるものなのでしょう。


我が国においては明治18年 (1885) にメートル法条約に加盟し翌19年に公布していますが、明治24年になって定められた 「度量衡法」 (明治24年3月244日法律第3号) は従来からの尺貫法を基本としつつメートル法も許容し、かつメートル法の原器よりの換算を使用するという極めて変則的なものでした。

そして更に明治42年に 「改正度量衡法」 (明治42年3月8日法律第4号) となってヤード・ポンド法も許容して3者併用とすることになり、混乱に拍車をかけたわけです。

そこで大正10年になってこの度量衡法が改正され (「度量衡法中改正法律」 大正10年4月11日法律第71号) やっとメートル法に統一されることになります。

とは言え、このメートル法への統一も数々の反対にあって長い間なかなか定着しませんでした。 しかしながら太平洋戦争終結後の米英の占領下にあってもヤード・ポンド法に戻ったわけではなく、結局昭和26年の 「計量法」(昭和26年6月7日法律第207号) となってメートル法で決着がつけられたと言えるでしょう。

(この項続く)

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「艦載砲と度量衡 (中)」 :

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