2013年11月29日

大空への追想 (134)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第10話 沖縄攻防戦と二式大艇の死闘

20年3月11日決行した第二次丹作戦 (前述) の成果は期待に反し見るべきものがなく、結果としては、天が下には隠れ家もなしと思ったのか、ウルシーとて安泰ならずとして敵は出撃時機を早めるという逆効果を生じたように思われる。

太平洋飛び石作戦で来攻した米軍はラボールの堅陣には触れず比島、サイパンに上陸を敢行して一挙に日本本土を狙う形となってきた。 次は台湾を飛び越して沖縄にやってくるのであろうことは、火を見るよりも明らかになっていた。

一方日本最後の空襲部隊としては、陸軍重爆隊をも含んだ第五航空艦隊が正面に立っていた。 レイテ沖海戦において事実上日本の海上部隊は潰滅しており、五航艦が最後の戦力となって九州、四国に集結していた。

したがって敵は沖縄攻略の準備作戦として、機動部隊の全力をもって、これら五航艦の基地を叩きにかかって来たのである。

敵機動部隊の北上に伴い、3月17日を第一日として、五航艦の要撃が火蓋を切った。

17日から19日にかけて四国、九州沖海上における彼我の航空戦闘は焼烈を極め、我が大艇索敵隊も連日、敵を捕捉して功を奏したが、未帰還機続出、3月20日以降可動機ゼロという悲惨な状態に陥った。

そこで日本中の大艇は全て詫間にかき集め、航空廠も全力をあげて二式大艇の修理を急ぎ、4月に入ると辛うじて最小限度の作戦機数を確保することができた。

敵側も四国沖では相当の痛手を被り、一旦南方に撤退したが、物量を誇る米軍は再び勢力を盛り返し、南西諸島に鉾先を転じて、3月22日、突如沖縄島を襲い強烈な砲爆撃を敢行し、一部兵力は慶良問諸島に上陸したのである。

ここにおいて、我が方は天一号作戦を発動し、五航艦は特攻攻撃とともに死闘を繰り返していたが、4月1日、敵は遂に沖縄本島に上陸した。

我が方は天一号作戦から菊水作戦に移行し、全力特攻の旗印のもとに猛攻を続け南西諸島から九州方面に再度向かって来た敵の大機動部隊群を迎えて、壮烈なる激戦というよりも、消耗戦を演じ、決号作戦へ転向しつつ、本土決戦態勢に備えたのである。

この間における二式大艇の夜間哨戒はまさに死闘というべく、必死の覚悟で出撃するその苦労はとても筆舌に尽くし難いものがあった。
(続く)

2013年11月28日

古刹で紅葉狩り

今日のロケは私の担当分はありませんでお休みでしたので、昼から雑用で駅前に出たついでに家内と一緒に近くの古刹へ。

紅葉狩りの季節となり、また今日28日は露店も出る毎月の縁日でもありまして、観光バス数台を始め結構な人出でした。

あちこちでカメラを構える人も沢山。 そんな中を暫しブラブラ。 今週が一番の見頃かもしれませんね。

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「龍驤」 の飛行甲板について

先にイーグルモス社の 「世界の軍艦コレクション」 の第23巻 「龍驤」 の記事で、その新造時の飛行甲板前部が木甲板であるのか鉄甲板であるのかについて、確たる史料が公になっておらず、いまだに確定された考証はない旨を述べました。

これについて、当該記事のコメント欄にてHN 「おじさん」 氏より “縦張り木甲板” であることを示す昭和17年6月撮影の写真のご紹介をいただいたところです。

それと同じものがこれです ↓ (注)

Ryujo_S1706_01_s.jpg

司令部の記念写真であること、そして写っているマストや遮風柵、伸縮継手などからしても 「龍驤」 であることは間違いのないところと思われます。

これを踏まえて 「龍驤」 の飛行甲板について、少し思うところを述べてみることにします。


従来から 「龍驤」 の飛行甲板は日本空母唯一の “横張り木甲板” であるとされてきましたが、その範囲について明確に示す史料は明らかになっておりません。

下の写真は昭和8年の 「龍驤」 建造中の有名な写真の一枚です。

Ryujo_S0803_12_s.jpg

写真に写っている範囲では、前部昇降機の後端まで飛行甲板の幅ほぼ一杯の横張り木甲板であることは明らかです。

また、昇降機の両脇も同じく横張りであるようにも見えますがハッキリはしません。 そしてそれより前方については様々な機材・資材などがあって判別不能です。

先の記事でご紹介した第1次改装後の写真を再掲しますが、上記のことはこれでも確認ができます。

Ryujo_photo_1934_01_s.jpg

そして昭和13年に撮影された第2次改装後の有名な写真が次のものです。

Ryujo_S13_02_s.jpg

残念ながらあまり鮮明ではありませんので、飛行甲板の状況は判りません。 前部飛行甲板両サイドにある白線の内側と外側では質感が異なっているようにも見えますが、何とも言えないところです。

この写真と同じ時に撮影されたもう一枚の写真があります。

Ryujo_S13_03_s.jpg

これも同じく大変不鮮明なもので、何とも言えません。 因みに、トップにご紹介した昭和17年6月の写真が間違いなく 「龍驤」 であるとすると、赤枠のところでの撮影と考えられます。

別の視点から見てみますと、次の写真は昭和10年の第四艦隊事件直後に撮影されたものと、そして昭和13年撮影の第2次改装後の、それぞれ飛行甲板前端とその下の艦橋部分を拡大したものです。

Ryujo_S1009_01_s.jpg

Ryujo_S13_01_s.jpg

明らかに飛行甲板裏の桁構造が異なっているのが判ります。 飛行甲板前端部のみならず、その下の艦橋構造も変わりましたので当然と言えば当然ですが ・・・・

(11月28日追記) : コメント欄でHN 「出雲マン」 氏からお尋ねのあった個所は次の写真の赤丸で示す部分と思います。 飛行甲板前端には樋がありますが、この部分も含めた構造が判りませんので、残念ながら当該写真だけではこれが何なのかは判りません。

Ryujo_S1009_02_mod_s.jpg
( 昭和10年第四艦隊事件直後の飛行甲板前端左舷側写真より )


そこで本題です。

1.「龍驤」 の飛行甲板前部は、建造当初から木甲板だったのでしょうか、それとも当初は鉄甲板だったのでしょうか?

2.木甲板だったとすると中〜後部と同じ横張りだったのでしょうか、縦張りだったのでしょうか?

3.縦張りとすると、何故前部のみなのでしょうか、その理由は?

4.第2次改装による飛行甲板形状及び艦橋構造の変更に併せて、縦張り木甲板に変更された可能性は?

5.そして、新造時、第1次改装後、第2次改装後のそれぞれについて、木甲板と鉄甲板、縦張りと横張りのそれぞれの範囲は?

結局のところ、今後確たる史料なり写真なりが出てこない限り、これらの疑問は解明されず、「龍驤」 の飛行甲板については不詳のままと言えます。

ついでに申し上げるならば、昭和13年の写真では飛行甲板前部両サイドの白線は実線ですが、トップにご紹介した昭和17年の写真では点線となっています。 飛行甲板のマーキングはいつ、どのようなものに変更されたのでしょうか?

まもなく戦後70年になろうとしています。 これまで旧海軍艦艇については元造船官達によるものを始めとして数多の刊行物が世に出されてきましたが、たったこんなことさえ明らかになっていない、ということの一つですね。

これからすれば、故福井静夫氏がかつて刊行を公に宣言した 『日本海軍艦艇総集』 など、始めから全くの夢の夢であったわけで。


まあ、艦艇史全体からすれば個々の空母の飛行甲板のどの範囲が木甲板であったのかどうかなどは大した問題ではないのかもしれませんが ・・・・


折角の機会ですから、本件についてもし更なる史料をお持ちの方、ご存じの方ががおられましたら、是非ともご教示をお願いいたします。

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(注) : 当該写真を眺めていてふと気が付いたことですが ・・・・ 判りやすくするためにちょっとコントラストを変えてみました。

Ryujo_S1706_01_mod_s.jpg

遮風柵の向こう側 (艦首側) は、赤線の手前までは縦張りの木甲板であることを示す筋が明瞭に写っています。 しかしながら赤線から先は何故かこのようには明確な筋が見えず、連続しておりません。

ここから先も木甲板であるとしても、少なくとも赤線手前とは同じ一本の木材ではなく、ここで一斉に横一線で一旦切れていると思われます。

この赤線のところには甲板接手はありませんので、何故なんでしょうか? もしかするとこの線から先は鉄甲板の可能性も? これも疑問の一つです。 (11月29日追記)


posted by 桜と錨 at 10:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2013年11月22日

モデル・アドバイザーの独り言 (33)

◎ 第23巻 「龍驤」

第23巻は 「龍驤」 で、1933年の新造時の姿とされています。

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「龍驤」 は排水量僅か1万トンの小型空母ですが、日本の艦船ファンの間でも愛着を持つ人の多い艦であり、そして新造時と2回の改装後のそれぞれでまた好みの別れるところでもあります。

ただし、1/700も含めこの新造時の状態がモデル化されるのは始めてのことと思います。 これは本シリーズの価値を高めるものといえるでしょう。

そして、最近の本シリーズは製品の出来としてかなり安定してきたところであり、このレベルでの日本空母のモデルが期待されたところです。

モニターをされているHN 「おまみ」 氏による評価は、次のURLにUPされているとおりです。


ハッキリ申し上げて、モデル・アドバイザーの一人である私としても “う〜ん” というところです。

既に 「ビスマルク」 や 「フッド」 などで申し上げてきたように、一般に利用可能な資料の過多がモデルの出来を左右するという典型でしょう。 そして考証が少々疎かになりつつあるのではという指摘も。

加えて、この 「龍驤」 では本シリーズで折角これまで向上が見られた組立・塗装という面でも、残念ながら一歩も二歩も後退してしまっています。


1.製品の出来 (部品、組立、塗装) について

(1) 部品の設計が悪いのか組立が悪いのか、飛行甲板の前後が反り揚がってしまっています。 (というより、中部も若干盛り上がっていますので、波打っていると言った方がよいかも)

実艦では前部が1度の前下がり、後部が0.35度の後ろ下がりですので、このスケールとしては水平であれば OK ですが、このモデルの出来ではそれが台無しです。 個体差の問題で私のものだけこうなっているのか ・・・・ ?

023_Ryujo_model_04b_s.jpg   023_Ryujo_model_04a_s.jpg

(2) 高角砲座とその下の支柱部との形状が合っていません。 砲座が支柱より外側にはみ出ています。 後部の機銃座もその傾向にあります。 これはどうもみても設計のミス。 何故この様なことになってしまったのか (^_^;

023_Ryujo_model_06_s.jpg

(3) 飛行甲板の木甲板のモールドがありません。 おまみ氏はこのサイズとしてはこれはこれでと好意的な評価ですが、1/1100の同一スケールとして他の空母は表現されていますし、何よりも日本空母として唯一の横張ですので、これは絶対に表現するべきであったと思います。

(4) 上記と合わせ、飛行甲板のモールド及び塗り分けが簡素過ぎます。 白線のマーキングも形状がかなり異なります。 滑走抑止装置装備の予定位置を表現したと思われる凹モールドも余計です。 また、就役時には既に装備されていた飛行甲板後端両舷の着艦標識が欠落していますが、目立つだけにこれは痛いミスの一つ。 

023_Ryujo_model_02_s.jpg

(5) 推進軸がハの字になっています。 ブラケットなどの形状を見ると、組立ミスと言うより、部品の設計・製造ミスのようです。

023_Ryujo_model_05a_s.jpg

(6) 艦載機は、他のモデルと同じく全体が一色で翼上部に日の丸だけというもの。 これをシンプルと言うのかミスというのか ・・・・  まあ、飛行甲板上の配置の仕方も併せ、本シリーズでは艦載機は “おまけ” と思っていただくしか (^_^;  でも折角なのに何故もっと力を入れないのでしょうねぇ。


2.モデルの考証について

全体的な見かけとしてはそれなりに出来上がっており、1/1100というスケールを考えるなら十分なレベルと言えますが ・・・・ 細部についてのアドバイスはほとんど採り入れられていません (^_^;

特に指摘すべきところは次の点です。

(1) 上部構造物の前後部の形状がかなり違います。 艦橋前面は非常に複雑な形状をしておりますが、その特徴ある姿となっておりません。 また後部は背面のシャッターはもちろんですが、印象が異なってしまっています。

023_Ryujo_model_03a_s.jpg   023_Ryujo_model_03b_s.jpg

(2) 上部構造物両サイドのデフォルメの仕方が考証に対して極めて中途半端で、結果的に 「龍驤」 の実際とはかなり違った姿になってしまっています。

023_Ryujo_model_07_s.jpg

これらについては、モデル・デザインの初期の段階で写真や資料を示して全て指摘してありますが、デザイナーさんによって無視されてしまったようです。 一般に出回っている資料が少ないだけに、なぜもっと素直にアドバイスに従ってくれなかったのでしょうかねえ (^_^;

度々申し上げてきておりますが、モデル・デザインの段階でデザイナーさんがデフォルメと自己の考えによる考証とを一緒にしてやってしまっているようで、また、どうもイーグルモス社側もその問題点を認識されていないように思いますが ・・・・ ?


ただし、これは申し上げておかなければならないでしょう。 飛行甲板の木甲板部分についてです。

「龍驤」 の飛行甲板については、翌34年の第1回改装後の上空からの大変素晴らしい写真が残されていることは皆さんご存じのことと思います。

Ryujo_photo_1934_01_s.jpg

この写真で前部エレベーター以降の木甲板部分 (横張り) と、それより前の部分とでは全く違った写り方をしております。 その前部部分を拡大したものがこれ ↓ です。

Ryujo_photo_1934_01a.jpg

これを見ると木甲板でないようですが、しかしその境目はよく判りません。 写真に見える縦の筋は鉄甲板でこのように写ることは 「加賀」 などの写真でも明らかでしょう。

したがって、これをもって木甲板か、鉄甲板かを判定することは不可能で、当然そのどちらかであるかについては意見の分かれるところです。

それに、ここを縦張りの木甲板とするには次の疑問があります。

(1) なぜこの部分だけわざわざ縦張りとしなければならないのか、その根拠・理由がない。
(2) ここの構造について記述された史料は今のところない。

したがって、このモデルの仕様も考証の一つとして存在しますので、イーグルモス社の見解としてこれを採用したことは、これはこれで誤りでは無いと言えます。

( もしここが縦張りの木甲板とする史料をご存じでしたら、是非ともご教示ください。)

また、着艦制動索が建造当初は縦索式などと言われる方もおられますが、付属の解説書にある呉式四型ではないものの、横索式 (萱場式か呉式かは不詳ですが) であることは明らかです。

それに、兵器採用年と実際の装備年とは別であることに注意が必要ですね (^_^)

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なお、「龍驤」 は1万トンの小型空母とは言え、その実用性には見るべきものがあり、これはこれで十分使い物になったことは申し上げるまでもありません。

また、改装によっても航海性能が十分では無かったとか、「凪いだ海でも波が前甲板に打ち付けた」 だのは、それでは駆逐艦や軽巡などはどうなのかと。

つまり艦首波の立ち方は、その時の海面の状況はもちろん、艦首部の形状によって異なってきますし、大きなフレアーによって上から押さえる状況になりますのでより大きく見えるようにもなります。 しかしそれと耐航性能とは別の話であり、また復元性能の話しとも違います。

単に波を被るというのであれば、この荒天でもない状況の写真 ↓ で、4万トン級の 「赤城」 が艦首の乾舷不足、耐航性不良だとおっしゃるのでしょうか?

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私に言わせれば、あまりにも俗説に惑わされ過ぎているように思われます。

それに 「支援空母」 だの「二線級」 だのについても大いに異議のあるところで、私としては全く賛同できる表現ではありません。

1万トン未満の小型空母として計画され建造されたとはいえ、当初から支援空母でも二線級でもあった訳ではありませんから。

特に 「ス式安定儀」 の装備により飛行作業時の動揺減振には見るべきものがありました。 (安定儀は通常航海で使うものではないことにご注意を)

これを含めた 「龍驤」 の実際の状況については、本ブログで連載した高橋定氏の 『飛翔雲』 の中で出てきますので、これをご参照いただければ良くお判りいただけるでしょう。

ましてや 「空母の本領を発揮できない設計となった」 などは全く実艦無視と言えます。 あまりにも船に乗ったことがない人による “誤った思い込み” ですね。

えっ、太平洋戦争期の新型高性能機に対応できなかった、ですか。 そんなことは当たり前のことです。 「龍驤」 建造時にはそのようなことは想定もしておりませんし、出来もしませんので。

「大和」 型を建造するべきではなかった、という結果論だけでものを言うことと全く同じ類です (^_^;


2013年11月21日

撮影快調

ゴジラ・スタジオでの撮影は順調に進んでいます。 今日は第3スタジオに作ったセットで。

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撮影はまだまだ続きますが、ヒロインの武井咲ちゃんは早くも今日が撮了。 最後に自ら素晴らしいスタントを見せてくれました。

でも、とっても可愛いですねぇ〜 (^_^)

posted by 桜と錨 at 22:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに

2013年11月17日

「エルトグルル号」

トルコ海軍のフリゲイト 「エルトグルル号」 が明治23年に訪日後の帰国の途上、紀伊大島の樫野崎において荒天により遭難、座礁沈没して司令官、艦長以下多くの乗員が亡くなりました。

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この時奇跡的に生き残った僅かな乗員に対して大島の住民総出で献身的な救難作業に当たったことは有名な話しですし、またこの樫野崎の地では現在でも同号の慰霊が継続されていることもここにご来訪の方々ならよくご存じのことと思います。

トルコ及び同国民は本事件を切っ掛けとして全土をあげての大変な親日となり、今日に至るトルコ−日本親善の絆の礎となりました。

先日の安倍首相のトルコ訪問における熱烈な歓迎振りはこれがあるからであり、また、かつてのテヘラン事件において215人の邦人救出にトルコ航空機が当たってくれたことはこの 「エルトグルル号」 の恩を同国・国民が忘れていないからです。

本家サイトにおける今週の更新は、この 「エルトグルル号」 に関連して、昭和12年に現在の弔魂碑が建設された際に、これを記念して当時の駐日トルコ大使館が作成した冊子 『日土親善永久の記念 エルトグルル号』 です。

本来は安倍首相のトルコ訪問に合わせるつもりでしたが、少々タイミングを失してしまいました (^_^;

元々の原本は、日本語の部、トルコ語の部、及び付図・写真集の部の3つが1冊になっているものですが、本家サイトではこれら3部をそれぞれのPDFファイルとしてその全頁を公開しております。


Ertugrul_J_cover_s.jpg   Ertugrul_T_cover_s.jpg

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残念ながら、ディジタル化したものは原本からではなく、私が昔研究用にコピーしておいたものからで、旧式な複写機でのものですので写真集の部が鮮明なものとは言い難いところがありますことをご了承下さい。

もし原本の綺麗な写真をご覧になりたい方々がおられましたら、いくつかの大学付属図書館などに収蔵されているようですので、お近くのところを検索してみられるとよろしいでしょう。

なお、本史料は75年以上前のものであり、その著者・編者などは不明で、かつネット公開に当たり現在のトルコ大使館などに事前連絡・確認などはしておりません。

本史料を本家サイトでご紹介することについては、私の個人的な責任において行っておりますが、もし正当な権利を有する向きからの異議などがありました場合には、直ちにサイトより削除する前提であることは申し上げるまでもありません。

posted by 桜と錨 at 17:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2013年11月15日

ゴジラ詣

いよいよ今週からゴジラ詣が始まりました。 これからしばらくは私もこの関係でバタバタしそうです。

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ロケ・セットがほぼ出来上がり、明日からここでの撮影に入ります。 撮影はここの3つのスタジオを使う大がかりなもので、撮影期間中にそれぞれのセットで模様替えを行いながら来月中旬まで続く予定。

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中のロケ・セットをご紹介することが出来できないのが残念ですが ・・・・ (^_^;

今日の打合せでも、監督以下スタッフ一同の意気込みがこちらまで伝わってきます。 前作以上に “ド派手な” 面白いものになると私も期待しています。 皆さんもどうぞお楽しみに !
posted by 桜と錨 at 20:09| Comment(5) | TrackBack(0) | 気ままに

2013年11月13日

大空への追想 (133)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第9話 神風特別攻撃隊梓隊出陣 (承前)

戦闘を回顧して

梓隊突入の第二次丹作戦後もますます激戦が続き、梓隊の感激もいつしか遠のいた頃、豊田連合艦隊司令長官から次ぎのような全軍布告が公表された。

『 菊水部隊神風特別攻撃隊梓隊は昭和二十年三月十一日、敵機動部隊を西カロリン諸島ウルシーに奇襲、敵航空母艦二隻以上を大破炎上せしめ、悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。 依ってここにその殊勲を認め全軍に布告す 』

この布告の対象となった梓隊は、銀河42名、飛行艇12名である。 本作戦はその後の調査により、突入自爆した銀河13機、突入の公算大なるもの銀河、二式大艇各1機、ヤップ島及び途中に不時着したもの、鹿屋に引き返したもの約10機。

黒丸大尉は、到着の時機、天候、目標視認困難等総合判断の上、再起を期し、攻撃を中止してヤップ島に帰着することを決意して、これを指令したのである。 適切な判断であったが、指令の不達、あるいはその時の流れの激しさ等から約半数が突入を敢行したのであることが判明している。

ヤップ島には数機が不時着、大破しているが (注1)、黒丸大尉は健在な搭乗員数名を銀河1機に収容 (爆弾倉の中にまで収容した) の上鹿屋に帰投している。

戦果は予期に反し少なく、悲壮な結果に終わったのであるが、ここに種々の問題点をあげて参考に供することにしたい。

第一は、前述のとおり、通信要務の拙劣に起因、10日の作戦を中止し、翌日決行という航空機の限度に近い連続運用に伴う整備上の混乱により、完璧を期し得なかったこと。

第二は、前日の天候を過信し、決行の日出撃時刻を1時間遅らせたことが不成功の主因であると当時の私は信じていた。

さて大艇隊に絞って反省してみよう。 当時特攻隊とは、最後に必ず体当たり攻撃を敢行するものと信じていたので、今回のごとく、任務終了後帰投せよということに対し、何とも割り切れないものがあった。

攻撃隊を突入させた後の二式大艇の行動は、天偵機を除いては突入する以上に帰投の方が必死に近かったのである。 1パーセントの生は与えられたのかも分からないが、それは単なる指揮者の言い逃れとも思えるのである。

私は、この命令を受領した時、大艇はウルシーまでの片道燃料とし、艇内に八百キロ爆弾3〜5発を装備し、攻撃隊の突入を見極め報告した後、残敵に突入させることを強硬に具申したのである。

しかしながら帰還能力のある大艇には、私の意見は遂に許されず、今回のような結果と相成ったのである。

すなわち二番機は未帰還、三番機 (長峯君の搭乗機) にはメレヨン (注2) で死の苦しみを強いることになった。 一番機は完全に特攻としての任務を果たしたが、3月18日の索敵で遂に未帰還となってしまった。

かくて日本の国運をにない回天の偉業達成に突進した梓隊をもってしても、既に芽生えていた敗戦という運命の壁は突破することができなかったのである。

死を大前提とする教育環境下にあり、武士道とは死ぬことと見つけたりとする葉隠れ精神を汲んで、我々は自分たちが国家の危急存亡に身を投げ出すことにより、家族や国民を救うことができると信じていたのである。 現代人から見れば、日本の教育の邪道なりと一言に決めつけられるかも分からない。

特攻隊員といえども、心底には生と死の葛藤があり、出撃までの間の苦しみはまことに筆舌に尽くせるものではなかったはずである。 しかしこの苦しみを乗り越えて、敢然と国難に飛び込んでいったからこそ、その精神は崇高であると言うべきであろう。

「特攻隊は強制された自殺行為である」 という所見が、この梓隊出陣の手記によって消え去ってくれることを望むものである。
(続く)

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(注1) : ヤップ島には開戦後に海軍の航空基地が建設されて昭和19年までには完成したとされ、同年7〜8月頃まで第203航空隊などが進駐したとされています。

基地跡は現在ではヤップ国際空港として拡張、存続していますが、当時の基地の詳細などについては不明です。


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( Google Earth より  現在のヤップ島 )

AB_Yap_sat_h25_02_s.jpg
( Google Earth より  現在のヤップ国際空港付近 )

(注2) : メレヨン島については後でこの三番機の不時着後についての話しが出てきますので、その時に改めてご紹介することにします。


2013年11月11日

旧海軍の 「迎送式」 について (続3)

さて、新任の長官が迎えの長官艇 (内火艇) に乗艇されたところからの続きですが、岸壁・桟橋の位置や形状が余程特殊でない限り、出迎えの長官艇は 「出船」 の態勢で待つのが船乗りの躾けです。

長官が乗艇されると、直ちに艇指揮の 「おもて離せ!」 の号令がかかり (乗艇直前にすでに繋留の舫索は外して艇員 (又は岸壁待機の兵員) が保持しておりますので 「舫離せ!」 の号令はありません)、後部キャビンの最後部 (ここが最上席) に敷いてある将官用敷物のところに、長官がまさに腰を下ろそうとするその瞬間に 「前進微速!」 と令して前進の機械をかけ、その前進の反動で長官が “ストン” と腰を下ろすタイミングがベストとされていました。

短艇敷物については、「海軍短艇敷物規程」 (大正13年達39号) によって次の様に定められています。

「海軍短艇敷物規程」 :

なお、当初は艦長用のものは無く、艦長と言えども通常の士官用のものが使われていましたが、昭和3年になってから艦長用敷物が追加されました。 (というより、従来の士官用敷物の仕様が艦長用となり、士官用が新たに制定されたと言う方が正しいのですが。)

この昭和3年の艦長用及び士官用敷物の仕様については上記のファイルにはありませんが、『海軍兵須知提要』 (海軍省教育局、昭和15年) では次の様になっています。 (注)

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さて、長官艇が新長官を乗せて桟橋を出ますと、この将旗を掲げる短艇が近傍を通過する在泊艦艇は、「海軍礼式令」 第74条第2項の規程によりこの短艇に対して敬礼することになります。

第七十四條 軍艦と軍艦又は軍艦と将旗若は代将旗を掲げたる短艇と遭うとき又は之に近づくときは左の敬礼を行うべし
(中略)
 二 軍艦は将旗又は代将旗を掲げたる軍艦又は短艇に対しては喇叭 「気を著け」 一回を吹き上甲板に在る准士官以上は之に面して敬礼を行いその他の者は姿勢を正し衛兵 (衛兵司令之を指揮す) は捧銃を行い喇叭 「海行かば」 一回を吹奏すべし

ただし、長官が乗艇する短艇はこの敬礼に対して答礼は行いません。

またこの敬礼の時、当該条文では近傍在泊艦は総員が上甲板に整列するなどの規定はありません。 しかし、新司令長官の着任であることは予め全艦に通知されて判っていますので、新長官に敬意を表するため、慣習として少なくとも手空き総員が軍装にて整列しているのが一般的と言えます。

次は、いよいよ短艇が旗艦の舷梯に到着するところからになります。
(続く)

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(注) : この短艇敷物については、現在の海上自衛隊でもほぼ同じようなものが使用されています。

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余談ですが、艦艇長にとって離着任の時、特に離任時にこのように内火艇で艦を離れるのが最高とされています。 私も 「きりしま」 艦長離任時にはこの内火艇での機会に恵まれましたが、この時の感慨は一生忘れることができないでしょう。

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次 : 「 旧海軍の 「迎送式」 について (続4) 」

前 : 「 旧海軍の 「迎送式」 について (続々) 」

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2013年11月10日

「三式掃海具」 など

本家サイトの掲示板の方で掃海具についてご質問がありましたので、これに関連して、本家サイトの今週の更新は急遽予定を変更しまして、『水雷講堂』 の 『水雷武器概説』 中の 『掃海』 ページに 「二式掃海具」 (一型、二型) 及び 「三式掃海具」 (一型〜三型) を公開しました。


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掃海具というマイナーな兵器については、ネット上などでもなかなか話題にされることがありませんので、他の掃海具についても今後機会を見て追加公開していくことにします。

併せて、掃海のやり方などもお話しできればと思いますが、本来テーマのコンテンツだけでもなかなか思うように増やせませんので ・・・・

まあこちらも気長にお付き合いをいただきたいと存じます。

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2013年11月08日

大空への追想 (132)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第9話 神風特別攻撃隊梓隊出陣 (承前)

飛電 !! 「 我れ突入す 」

梓隊を出撃させたあとの基地は、嫁ぐ娘を送り出した親許と同じように、心配しながら放心状態に陥るのに似ている。 時の過ぎるのを待っているだけであった。

梓隊に関して私が書けるのは南大東島上空までであり、あとは突入電報を待つだけなのである。 突入するまでの誘導機の死闘は、筆舌につくせるものではない。 長峯君の手記を読む以外には、私には説明する資格がない。

前日の天候はがらりと変わっていた。 ウルシー到着は、日没を遥かに過ぎていたのである。 出撃を一時間延ばしたことを悔やんでも既に遅すぎる。

二式大艇は制限を遥かに越えて驚くべき死の飛行を敢行していた。 必中を期して急ぐ銀河隊の苦闘、基地では到底予想もできなかった。

1800、予定突入時刻だが何の情報も入らない。 夕食の時間だが誰一人食卓につく者がいない。

「 まだ、来んか 」

「 まだ来ません 」

私と要務士の間に激しいやりとりが続く。

「 だめかなー 」

誰かの囁きが耳に入る。 そんなことがあってなるものか、私は信じていた。 108名の搭乗員を犬死にさせてなるものか。

基地も既に真っ暗になっていた。 1900、けたたましい電話のベルが鳴った。 要務士がタックルするように受話器をひったくった。

「 奇襲成功 !! 」

電話室の声が筒抜けに響いた。

「 やったぞーッ 」

うわーッという歓声が起こった。

「 整備員に知らせろッ 」 私は大声で怒鳴った。

「 全軍必中突撃せよ 」
「 我れ正規空母に突入せんとす 」
「 暗い、暗い、艦種不明 」

現場のなぐり込み状況がそのまま入電した。 まさに襟を正させる声だ。 私はその場に座り込んでしまった。

悲壮な電報はしばらく続いたがばったりと途絶えた。 室内は号泣が渦巻いていた。

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( 原著より  被弾し炎をはきつつ突入する銀河 )

以下長峯君の手記を引用させてもらおう。


『 ヤップ島で銀河隊と別れ (作戦計画どおり) 銀河隊が東の暗闇の中に消えてから約10分、メレヨン島に針路をとっている時、「暗し、暗し、艦種不明」 ウルシー上空に達した銀河隊から、次々に打電してくる悲痛な叫びを受電した。

無電はなおも続いた。 「われ突撃す」 「トトト ・・・・ ツー」 この長符が切れる瞬間がその機の体当たりである。

真っ暗な闇の中で計器盤だけが淡い光を放っていたが、その計器盤が一瞬ぱーッと明るくなった。 はッとして左方を見た。 続いて一発火柱が上がった。 遠く低い雲をシルエットに浮きだせて立ち昇った火柱は大きかった。

「火柱の数を記録しろ」 と叫びながら、飛行帽のまま姿勢を正し、黙祷を捧げた。 6番目の火柱で、付近の雲の峰々が紅に染まりながら横に光が走った。 その光の何秒か後に遠雷のような響きが大艇にまで感じられた。

その後数本の火柱が続いて特攻は終わった。 大艇内は粛然として声を出す者もいなかった。 その間10分間くらいだろうか、火柱の数は9〜11本と思う。

尊い生命を祖国に捧げ護国の鬼と化してゆく攻撃隊員の御魂の権化である火柱を正確に把握できなかったことは申し訳ないと思っている。

風防ガラス越しにサイダーで乾杯して別れた銀河隊の人々、翼を振りながら夕闇に吸い込まれるように天駆けて征った彼らに対し、言葉には言えない無限の至境を胸中に感じるのであった。』


このあと誘導三番機は一発が遂に焼損し、残る三発を頼りに非常な苦闘を続けながらメレヨン島に不時着、上陸したことを知ったが、主力の後を迫った二番機杉田中尉機は遂に連絡なく、攻撃隊に続いて自爆したものと断定されたのである。
(続く)

2013年11月06日

特設特務艇の艇長名について (続)

先日、特設特務艇の艇長名についてお話したところです。


そうしましたら、このお話しの直接の切っ掛けであったHN 「戸田S.源五郎」 さんが氏サイト 『大日本帝国海軍特設艦船』 にて、早速この特設特務艇の艇長名の変遷についての一覧表を作ってくれました。

下のURL中の 『基礎資料の部』 コーナーにある 『5.艦船・特設艦船の長の職名』 です。 この表と、同じく同ページにある 『2.特設艦船種別変遷一覧表』 の2つの組み合わせは大変にユニークなものであると言えるでしょう。


いや〜、良いですねえ、こういうこだわりは。

ネット上でこの様な地に足がしっかりとついた良質のコンテンツが増えていくことは、実に喜ばしい限りです。

posted by 桜と錨 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2013年11月05日

大空への追想 (131)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第4章 太平洋戦争の巻 (16年10月〜20年8月) (承前)

    第9話 神風特別攻撃隊梓隊出陣 (承前)

決 行 !!

慌ただしい行動は夜を徹して翌朝まで続いていた。 血涙をふり絞って整備に全力をあげたが、遂に可動機は4機、詫間から呼びよせる余裕もなく、第二誘導隊を私の一機に絞った。

昨日の大混乱の中で一番機のみは予定の天候偵察を完了していたのである。 しかも結果的にはこれが仇をなしたのである。 コース後半は追い風となっており、全コースで一時間の余裕が出たのである。

司令部は詳細な天候偵察機の報告を検討の結果、11日の出撃時間を1時間遅らせることに決定した。 (これまた運命の悪戯であった)

「 昨日は予行だったよ 」 と自らを慰め、前日以上の激動の中に出撃となった。 生田機は0400、主力は0900、堂々と出発した。

ところが二番機杉田機は、出力低下のため3回の離水を繰り返し、約30分遅れて単機あとを追う形となってしまった。

彼は同僚に、「 俺は銀河の突入を見極めた上、あとを迫って突っ込むつもりでいる 」 と洩らしてたことを後になって聞いたのだが、杉田機は遂に主力とは合同できなかった。

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( 原著より  二番機機長 杉田中尉 )

私は単機鹿屋に向かったが、既に銀河24機は編隊を組んで佐多岬上空を南進していた。 直ちに先頭に立って黒丸一家を誘導した。

梓隊24機の大編隊は、かくしてウルシーへの大進撃を開始したのである。 それは美しくも壮厳な一幅の錦絵であった。 故郷の父よ母よ照覧あれ、梓隊員はただ今神聖なる心境のもと、靖国の神への第一歩を踏み出したのである。

天候は快晴、主力堂々の飛行はまさに南海を圧していた。 進むにつれて、俺も一緒に征きたいという衝動が高まるばかり、「 南大東島まであと五分 」 という偵察員の声で思わず現実に舞い戻る。

遥か前方に特攻誘導の三番機が視界に入ってきた。 時間は1100、銀河隊は徐々に三番機の方に移動してゆく。 私は銀河隊に接近しながら黒丸大尉を呼び出し、「 成功を祈る 」 と運送させた。

電話員の声が感激に奮えている。 各機は風防越しにマフラーや鉢巻、あらゆるものを打ち振っている。 まさに感動の一瞬であった。

三番機に接近した。 我が子との別れである。 160ノットで進撃している。 南大東島は既に過ぎ去っていた。 別れにくい。 バンクを続けながら後を追う。

「 誓って成功を期す 」

黒丸大尉の声とともに、引かれる袂をひきちぎるような気持ちで U ターンした。

「征け、日本の運命は梓隊の双肩にかかっているんだぞ !! ・・・・ 心の中で叫びながら、次第に遠ざかる梓隊の姿にもう一度合掌した。 この時宇垣五航艦長官の壮烈なる激励電報をキャッチした。

「 皇国の興廃はかかりてこの壮挙にあり。 各員奮励全機必中を期せよ 」

非情とも思えるこの電文は、長官の当日の心境をよく表現している。 特攻を命ずる指揮官の苦悩は体験者でなければ分からない。 いったん出撃させた以上見事に命中して本懐を遂げさせたいと祈るのが真の愛情ではないだろうか。

帰る機上で一首を捧ぐ。

     死の道を日ごろ教えし部下なれど
              出で征く姿に我ひれ伏しぬ
(続く)

2013年11月04日

モデル・アドバイザーの独り言 (32)

◎ 第22巻 「フッド」

第22巻は本シリーズ初の英国艦の巡洋戦艦 「フッド」 で、1940年の姿とされています。

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日本の艦船ファンにもよく知られ、かつ愛着を持つ人も多い艦であり、しかも英国出版社が出す初の英国艦であるだけに、今回の出来が注目された一つと言えます。

モニターをされているHN 「おまみ」 氏による評価は次のURLにUPされているとおりです。


私としても、1/1100スケールの本シリーズとして、その全体的な出来栄えは良いと思います。 これだけのものであるならば高い評価を与えてもよいでしょう。

逆に言うと、英国艦であるだけに良質な資料も豊富に揃っておりますので、モデル化としては非常に楽であったと考えられます。

例えば、日本で比較的楽に手に入るだけでも次の一般刊行物などがあり、その気になれば1/1100スケールのモデル化としてはこれらだけでも十分な内容と言えるものです。

profile_hood_cover_s.jpg   anatomy_hood_cover_s.jpg

biography_hood_cover_s.jpg

もちろん、艦橋構造物の各層平面を始めとする細部の形状、船体中部両舷各2個所の魚雷発射管口扉のモールド欠如、及び前部マストの設計製造・組立ミスなどなど、色々あって言い出すとキリがありませんが、まあ我慢できないほどのことではないでしょう。

ただし、モデル・アドバイザーの一人としては、次の点については指摘しておきたいと思います。

1.艦首側面形状がちょっと異なります。 また、左舷に副錨の錨孔がモールドされていますが、建造当初からこれはありませんので、目立ってしまうだけにこのミスは痛いです。

2.舵及びその取り付け部 (デッドウッド) の形状がかなり違います。

3.船体塗別線の黒色帯の位置が斜めになっており、前部側が少々高すぎます。 これによって船体全体の印象がかなり変わってしまっています。

022_Hood_model_03a_s.jpg   022_Hood_model_03b_s.jpg

4.短艇の種類・形状などが異なります。 また、後部マスト両脇にある高角砲が何故か間違った位置 (前部側にずれている) に取り付けられています。

5.前後部マストの黒色部の塗り分けが違います。 モデルのものは改装前の1920年頃のものです。

022_Hood_model_03d_s.jpg   022_Hood_model_03c_s.jpg

6.キールが艦底から異常に飛び出ています。 あまり目立つところではありませんが、フルハル・モデルとしてはこれも痛いミスです。

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これらについては、1/1100スケールのデフォルメ上の話しではありません。 明らかにモデル・デザイン上の問題です。

なぜ、この様になってしまったのか?  いずれも、例えば上記の資料などだけに基づいたとしても間違えることはないはずのものばかりですので、ちょっと首を傾げざるをえません。

全体の出来が良いだけに、何とも惜しまれるところです。

2013年11月03日

『海軍用語』 公開

本家サイトのカウンターはご来訪34万名を越えてしまいましたが、相変わらずバタバタしておりましてキチンとした感謝企画が出来ませんので、これを兼ねて取り敢えず本家サイトの今週の更新として、『史料展示室』 コーナーにて大正11年に海軍教育本部が作成した 『海軍用語』 の内の 『砲術の部』 『水雷術(魚雷、発射機)の部』 『運用術の部』 の3つを公開しました。

navterm_gun_T11_cover_s.jpg   navterm_torp_T11_cover_s.jpg

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申し上げるまでもなく “始めに言葉ありき”で、専門事項を取り扱う際にはその共通認識としての 「用語」 というものは大変重要になります。

例えば先日ご説明した 「ネット・ラック」 と 「キャット・ウォーク」 のように、“自分はこれをキャット・ウォークと言うことにしている” などと言い張られても、それはそれで個人の自由ではありますが、ただしそのような姿勢では物事を正しく理解し表現することができませんし、ましてや他の人々に対して正しく伝わりません。


もちろん、今回公開しましたものは上記の3術科について旧海軍として基本的・基礎的な用語とその読みだけを定めたものですので、それぞれの専門用語についてはこれだけで全てを網羅したものではありません。

それぞれの用語の意味・定義やここに含まれない用語などについての詳細は、それぞれの教範類及び関係法規類を見る必要があります。

また、ここに定められた用語の中には、今日では既に使われていないもの、あるいは他の用語に換わっているものなどがありますので、現在において当該事項を取り扱う際には注意が必要です。

とは言っても、旧海軍について研究される際には、まずこれら用語についての正しい知識をもって望まれることをお勧めします。 それが正しい理解に繋がるからです。

なお、この 『海軍用語』 については、この大正11年に定められた残りのもの、及びその後に追加・改正されたものについても、今後機会を見て追加公開して行きたいと思っております。

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2013年11月02日

孫娘と

孫娘の幼稚園は何故か今週末は4連休になっているようで、早速我が家に来襲中です。

一緒に iPad をしたり、レゴを組み立てたりと、私もサービスの真っ最中 (^_^)

今日の昼間は近くに出かけたついでに、小さな公園でしばし。

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その公園で何やら移動幼稚園なるものが開かれておりまして、遊びに来る子供達に出来立てホカホカの焼き芋を配っていました。 早速孫娘と私も一つずつ貰ってベンチで。

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そして我が家に戻ってからは、今年のハロウィンの最後を飾って、孫娘と二人でやっている iPad の 「Hello Kitty World」 でハロウィン村が完成!

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で、今週末もやっぱり仕事は進みませ〜ん ・・・・ と言い訳してみる (^_^;

posted by 桜と錨 at 18:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに