2016年09月25日

艦内電話装置配置図


本家サイトの50万名ご来訪感謝記念企画の第4弾のコンテンツを作らなければならないところですが、ちょっと変なものに捕まってしまいまして延期させていただきます。

その変なものとは 「あさかぜ」 就役時の 『艦内電話装置配置図』 です。

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昔コピーしておいたものをディジタル化しようとしたのですが、コピーの写りが大変に悪いため、ゴミ取りなどの加工とよく見えないところを何とかと作業を始めましたが、これが大変に手間暇を要することがわかりました。

下図は艦橋構造物の第02甲板 (3層目) で、航海艦橋やCICがあるところですが、この図面だけでもやっとここまでです。

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船体内の各甲板になるとちょっと完成は何時になることやら ・・・・ (^_^;

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( 第2甲板 まだ未加工です )

この 『艦内電話装置配置図』 というのは、艤装工事の時に各種の艦内通信装置について “ここにこういうものを取り付けましたよ” というもので、一般艤装図の上にこれを書き加えたものです。

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( 上の第02甲板図の一部 航海艦橋艦長席付近 )

確か当時でも10部程度しか作られなかったと記憶していますので、その意味でも大変にめずらしく、一般の方々がご覧になったことはまず無いと思います。

最終的にはこの図の縮小版と各通信系統ごとの一覧表が一緒になって完成図書の中に綴じられることになります。

既に退役した古い艦のものですが、艦艇の艤装時の図面の中にはこういうものも含まれていますという、取り敢えずご参考までにご紹介を。
posted by 桜と錨 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代戦のこと

2016年09月24日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続3)


やっと本題に入ります (^_^;

それでは、何のために約1400名もの生存者を一個所に集めておく必要があるのでしょうか?

そうです、乗っていた艦の事後処理と残った乗員の次の配置への準備を“早急に”実施しなければならないからです。 旧海軍ではこれら全てを総称して 「残務処理」 と呼んでいました。

大きく分けると次の様な事項があります。


1.艦及び乗員の状況の調査・確認

出港時の乗艦者の確認から始まって戦闘時の状況、生存者、負傷者、戦死者そして行方不明者にいたる迄を一人一人について調査し纏める必要があります。

沈没によってほとんど全ての記録が失われたことから、これらを確認するだけでも物凄い労力を要するものであることはお判りいただけるかと。 その成果を総括したものの一つが 「戦闘詳報」 であるわけです。

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( 「武蔵」 戦闘詳報表紙 元画像 : 防衛研究所所蔵史料より )


2.戦死者及び行方不明者の取扱

戦死者について士官は海軍省へ、准士官及び下士官兵は所管の鎮守府へ一人一人について正規の報告しなければなりません。

もちろんその前提として、1.の調査で戦死者は誰が何時どこでどの様な状況で戦死したのか、それを誰が確認したのかを、行方不明者も同様で、特に最後は誰がどの様な状況で見たのかを明確にしなければなりません。

そして、もし誰かが戦死者の遺品、遺髪などを持っていた (預っていた) としたら、それの送付手続きも必要になります。

3.個人の記録の確認

入隊以来の各個人の経歴などを記した 「履歴表」 は失われておりますので、この記載事項を可能な限り復元しながら、各個人の次の配置決定に備えなければなりません。

階級、特技、賞罰、俸給額はもちろん、過去の経歴などは全てこれに基づいているからです。

そして最終的には内地に帰って、将校は海軍省、准士官以下は所管の鎮守府人事部にある履歴原簿と照合しなければなりません。

4.官給品の支給

沈没時に戦闘配置から着の身着のままで海に投げ出されたわけですから、身の回りのものは何もありません。

一人一人に規定の衣服・装備品などの支給が必要になりますので、誰に何を支給したかの貸与簿も一から作り直しです。

正式な支給品は次のようなものがありますが、もちろん一度に全てを揃えることはできませんので、何時何を支給したのかをきちんと記録していく必要があります。

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そして履歴表がありませんので、制服に着ける階級章、特技章、善行章なども一つ一つ間違いのないように確認する必要があります。


以上の事務処理・手続きだけでも相当な期間を要しまず。 副長以下の主要メンバーが内地送還となった頃に、ようやく 「戦闘詳報」 などの主な事項の目途が立ってきた時期でしょう。


そして更に重要なことは、この残務処理のために1400名もの人数を一個所に集めますので、そのため総員用の食住が必要になります。

宿舎に士官・准士官・先任の下士官・その他の下士官兵に分けた部屋や事務室などが必要ですし、生活及び事務に必要な物品も整えなければなりません。

食事も毎日三度三度の烹炊員や主計員を主体とした体制を作らなければならないことです。 どこかの部隊の食堂に行って並べば何時でもセルフで食べられる、などということはあり得ませんので、ともかく 「武蔵」 乗員として自活できるように、1400名分の食材 (生糧品、貯糧品) の補給体勢、調理場と調理器具、配膳の道具類等などを整えなければなりません。 それもコレヒドールに着いたその日から直ちにです。

加えて、戦闘や脱出時に数多くの乗員が多かれ少なかれ負傷しており、これらの治療も必要になります。 海軍病院へ入院を要するような重傷者は別として、それ以外の負傷者の介護などの面倒は基本的に全て自分達で行うことになります。


これら全てが如何に煩雑であり多忙を極めるものであったかは皆さんもご想像がつくと思います。

したがって、これらのこと全てを行う施設として、「武蔵」 沈没の翌日10月25日、急にその受け入れを担当することとなった31特根としては、コレヒドールが最適であり、しかもここしか選択肢がなかったと考えられます。

通常ならば、これらの残務処理を行いつつ順次内地送還を待ち、内地において最終的に残務処理の残りを行うことになります。

これらの個人個人の事務処理のカタがついたところで、初めて正式に各自の次の補職替えの手続きに進むことができるのです。


以上の “残務処理” とそれに伴う要措置事項の必要性について、これまで語られてきた生存者の処遇・待遇についての話しの中では “スッポリと” 抜け落ちて、コレヒドールという “僻地” に収容されたことのみが一人歩きしているように思えます。

例えば、10月18日までにマニラだけで既に給糧艦 「伊良湖」 を始めとする21隻の海没・放棄艦船の乗員がおり、そして10月18日以降は更に 「最上」 を始めとする実に92隻の艦船の乗員がマニラに収容されていたのです。

そして戦況は、「武蔵」 の乗員でさえ何とか2回の機会を捉えて620名を内地送還するのがやっとであり、そしてマニラを中心とするルソン島やその周辺の防衛体制強化の必要から、正規に送り込まれる部隊以外に多数の兵員の充足に迫られていたのです。

したがって、前回お話ししたコレヒドール収容以降の 「武蔵」 生存者の状況も、ある意味では日本海軍としても止むに止まれぬものであったと言えるでしょう。

「武蔵」 乗員という、いわば選び抜かれた多数の熟練兵は、全海軍のどこの艦船・部隊でも喉から手が出るほど欲しかったことは間違いないことなのですから。

そして、当時の旧海軍には 「武蔵」 沈没を秘匿するような必要性も余裕も無かったといえますし、それは既にお話しした実際の経緯からも、その様な事実は全く無かったと結論付けられます。


が “しかし” です。

この様な “残務処理” のことや戦況がよく判っているのは准士官以上の一部です。 そして下級の士官や下士官兵になる程、こういう自分の置かれた状況というものを理解する知識に乏しいでしょう。

いちいち事細かに説明して納得させるような事柄ではなく、淡々と事務処理を進めればいいだけのものだからです。

もちろん上陸 (外出) などは論外です。 服装 (階級章や善行章など全てを含む) が各個人で正しいものでなければならないことはもちろんですし、なにしろ肝心なお金を持っていません。

給与簿がないと個人個人の俸給額が決められませんので支給できませんし、また個人の貯金通帳や印鑑も無くしたのですから。

したがって、残務処理が全て完了するまでは基地内に “幽閉状態” となることは当然なことなのです。 外に出したくとも出せないのです。

しかしながら、こう言う海軍として当然の措置である境遇におかれることを十分に理解できない下士官兵の中には、これを “隔離された” と感じる者がいたとしても不思議ではないでしょう。

ましてや 「武蔵」 の乗員であればこそ、それが “沈没を隠すために” と結び付いてもおかしくはありません。

そして悪いことに、副長以下が1ヶ月後に、第2陣がその後に内地帰還となり、そのあとは便が無かったわけです。

フィリッピンを巡る戦況などは判らずに後に残された者達が “自分達は棄民” と感じたとしても、それはあり得ないことではないと思います。


これが結局戦後になって、生き残り乗員達の回想や手記となって世間に広まり、“日本海軍は 「武蔵」 の沈没を隠すためにコレヒドールに隔離した” とまことしやかに流布されることになります。


余談ですが、先日放映されたNHKのドラマ 「戦艦武蔵」 でもその様な流れになっています。

元々の台本ではもっと強い表現のものだったのですが、プロデューサーや監督さんに事実としての “隔離” はなかったものの、生存者の感情として “中には” そう思った者がいたとしてもそれはあり得る話しで、このストーリーはこれはこれで有りですよ、とお話しし納得いただきました。

そしてそういう個人の自然な感情になるように配慮していただいております。

(この項終わり)

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posted by 桜と錨 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月22日

お彼岸


今日はお彼岸の中日。 生憎の天気でしたが、日頃の不精をお詫びかたがた家内とお墓参りに行ってきました。

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秋分の日の祭日ですので、小雨の中を結構墓参に来られている家族の方々が多かったです。


で、帰りはお約束の休憩 (^_^) 新規開拓ということで、ポツンとある小さなカフェにお邪魔してみました。

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専門店を謳うだけはあって、コーヒーはなかなか美味しかったです。 時々は寄ってもいいかも。

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posted by 桜と錨 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2016年09月19日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続2・補)


ちょっと本来の主題からは外れますが、折角の機会ですからHN 「大隅」 さんからコメントをいただいたマニラ湾口の人工島 「エルフレール島」 (El Fraile Island) についてご紹介したいと思います。

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( 現在のエルフレール島 元画像 : ネットより (サイト名失念) )

この島は元々は次の上の写真のように天然の小さな岩礁でしたが、1909年から米陸軍によってこの上に巨大なコンクリート砲台の人工島が築かれ、1930年代には下の写真のような姿になっていたとされています。

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( 米陸軍の戦前史料より )

米軍の正式名称で 「ドラム要塞 (Fort Drum)」、占領後の日本軍ではその姿から通称 「軍艦島」 と呼ばれていました。

ここには14インチ連装砲塔2基を始め6インチ単装砲及び3インチ単装砲がそれぞれ4基づつ装備され、これに関連して屋外には探照燈台兼見張台のマスト、将校居住棟、そして内部には弾火薬庫や機械設備が完備する他、充実した居住設備なども設けられました。

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( 米陸軍の戦前史料より )

1942年5月に日本軍によって占領されましたが、この占領時の要塞の状態については各砲台の概略以外はほとんど判りません。 (陸軍史料によると少なくとも外観的には屋外のマストや建物などは残っていなかったようです。)

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( 占領時の同島遠景写真  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

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( 占領時の同島略図  元画像 : 防衛研究所所蔵の陸軍史料より )

要塞に装備されていた各砲台については陸軍の手によって調査が行われ、北砲台の6インチ砲2門以外 「使用不能」 と判断されていますが、あまりにもラフな報告書しか残されていませんので詳細が不明で、どの程度のものであったのか判りません。

14インチ連装砲塔2基4門も、あるいは工作部などによって本格的な修理を行えば何門かは使用できるようになったのかもしれません。

一方で米側の記録によると、降伏時に3インチ砲を除き他の砲全てについて駐退装置を除去した上で、砲身内に砲弾のみを装填しこれを遠隔爆破させて使用不能とし、弾火薬庫内には海水を充填した他、可能な限り島内各部の破壊を行ったとされています。

結果的に同島占領後は、陸軍によって1944年後半頃までほぼ放置状態であったとされています。

そして44年後半になってから前述したようにコレヒドールを始めとするマニラ湾口の防御強化が始まり、かつての米軍の水上砲台などの再活用、再整備が行われたとされたわけですが、同年12月に編成されたマニラ湾口防衛部隊についてさえもきちんとした記録が残されておりませんので、詳細は全く不明です。

僅かに二復史料の中に 「武蔵」 乗員35名がここに配置され、そして45年3月25日の爆発により全員戦死と記録される以外は、全くその状況は不明です。 この35名が何時何のために配置されたのかも判りません。


一方米陸軍の公刊戦史では、2月に魚雷艇1隻が偵察のため上陸を試みたものの、守備隊 (海軍) の抵抗を受け、戦死1名及び戦傷6名を出して撤退しています。 ただし、日本側が使用したのは機銃のみとされています。

おそらくこの時の守備隊が 「武蔵」 の乗員であったと考えられますが、これによって米側は同島が無人のまま放置されていたのではないことを初めて知ることになります。

そして本格的な奪還のため、4月13日になって米軍側は上陸用舟艇に乗った陸軍部隊などが同島に上陸、内部に爆薬及び燃料 (一説ではディーゼル油とガソリンの混合物とされています) を投入し爆破しました。 この時、日本軍守備隊との銃撃戦により戦傷者1名を出したものの、後日日本兵69名全員の死亡を確認したと記録されています。

しかし、この日本軍守備隊69名とはいったいどこの部隊がいつ配置されたのかも判りません。

そして米軍によって更に2回にわたり内部が徹底的に爆破され、現在残るのはこの残骸の姿です。

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( 元画像 : 米軍史料より )

なお、このエルフレール島の歴史などについては、次のURLに素晴らしいサイトがあります。 昔及び現在の同島の写真なども豊富ですので、是非一度お訪ねください。



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posted by 桜と錨 at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月18日

大井上博著 『魚雷』


先程本家サイトの今週の更新として、引き続いてご来訪50万名達成感謝記念企画の第3弾、工学博士の大井上博氏 (1901-1966) が昭和17年に海軍省の検閲を受けて山海堂出版部より出版した 『魚雷』 を 『史料展示室』 コーナーにて公開しました。

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   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/tenji_main.html
   http://navgunschl2.sakura.ne.jp/tenji/45_torpedo_ohoinoue.html

魚雷というのは元々が機密レベルの高いものとはいえ、内容的には出版当時からすると少々古いもので、かつ多くは一般に公開されているものに基づいていますが、流石は工学博士らしく魚雷全般について網羅し、かつ足が地に着いた記述となっています。

ビジュアル的な見栄えの良いものがもてはやされる昨今ですが、こういった基礎から丁寧に解説されたものはあまり見かけません。 その意味でも貴重であり、この方面に関心のある方々の入門書としても格好の一冊と思います。

posted by 桜と錨 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月17日

家内の陶芸教室


家内が月2回週末に陶芸教室に通っています。

もっとも陶芸教室とはいっても、先生の指導により定番の茶碗類から始まる一般的なところではなく、毎回自分の好きなものを作り、あとは先生が (何とか使い物になるように) 手を入れて焼くところまでやってくれる、結構気ままでアバウトな教室のようです。

まあ私の父の例からしても、本格的な陶芸教室に通うと本人は “どうだ良い出来だろう” とは言うものの、家族にとっては迷惑なだけの茶碗やお皿などが家中に溢れることになりますので、これはこれで家内も気楽で良いようです。

で、先日娘達が遊びに来た時に次女が面白そうだと一緒に行って、自分も作ってみたものがやっと焼き上がりましたので家内が持って帰ってきました。

私への遅ればせながらの誕生日プレゼントだったのだとか。

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??? ハリネズミの置物? ハリセンボン?

始めは箸置きのつもりだったそうですが、これでは ・・・・ (^_^;

次女よ、ユニークなものをありがとう。 早速私の仕事部屋に飾ることにしました。


今回は家内の作品も色々と出来上がって持って帰ってきました。

その一つがこれ。 私が注文した蚊取り線香立てです。 でもこんな形で良いのかなぁ?

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まあ、こんなのをあれこれ作っていれば、それはそれで楽しいかも (^_^)

posted by 桜と錨 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2016年09月12日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続2)


それではコレヒドールに収容された後の 「武蔵」 生存者の状況ですが、はっきり申し上げて纏まった史料はありません。

戦後に第2復員局残務処理部が将来の戦史編纂に備えて纏めたもの (以下 「二復資料」 という) の中に断片的に出てくる他は、ほとんどこれと言ったものがありません。

また吉村昭氏が小説 『戦艦武蔵』 を書くに当たって 『軍艦武蔵戦没者慰霊祭記念誌』 を始めとする元乗員達の手になる資料を参考にしたとされていますが、同小説の最後で描かれている生存者達のその後は、二復資料と合わないところがあります。

これらを前提に纏めると次のようになります。


「武蔵」 乗員の実際の生存者数 (便乗者等を除く) は前回お話ししたように確定されたものはありませんが、“少なくともコレヒドールに収容された段階では” 准士官以上73名 下士官兵・傭人1303名 計1376名であったことは、これが戦闘詳報の根拠になっていることからも間違いのないところでしょう。

沈没艦船の乗員の身分は次の正式な配置が決まるまでの間は補充部付となりますので、「武蔵」 乗員もこの時点でマニラの第5海軍補充部付となったと思われます。

そして10月26日に到着したこの 「武蔵」 の約1400名はコレヒドールのどこに収容されたのかは全く不明です。

参考までに20年1月末の段階での同島の防衛図、及び米軍が撮影した戦前の写真をご紹介すると次のとおりです。

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( 元画像 : 二復資料より )

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( 元画像 : 1943年の米軍資料より )


さて、二復資料によると 「武蔵」 生存者がコレヒドールに到着する直前の10月18日現在の同島の海軍兵力は、第331設営隊の他第12、25及び31魚雷艇隊の計1137名であったとされています。

これに19年10月18日以降、第328、第333設営隊の676名の他、「鬼怒」 など海没艦船4隻の乗員を合わせて802名が加わり、コレヒドールの海軍兵力は計1939名とされておりますが、これには 「武蔵」 の乗員は含まれておりません。

そして20年1月末までにコレヒドールには更に震洋隊6隊を始め、防空隊や第103工作部30名などが次々と増加され、計約4500名になったとされています。


その一方で、コレヒドールに収容された 「武蔵」 の1376名の内、約1ヶ月後の11月23日に副長以下の主立った者420名が客船 「さんとす丸」 で、続いて12月6日に第2陣200名が空母 「隼鷹」 で内地送還となり、これによって残留者は756名 (それぞれの内地送還者の正確な人数は不明ですので概数) となります。

これら756名については、二復資料などによるとその後の配属先が判っているのは次のとおりです。

  マニラ防衛部隊 : 161名
  クラーク防衛部隊 : 316名
  エルフレール島守備隊 : 35名
  レイテ : 2名 (配属部隊不明)

したがって残りの242名が配属先不明と言うことになります。


二復資料によると19年12月20日に31特根隷下にマニラ湾口防衛部隊 (指揮官:31特根首席参謀) が編成され、コレヒドールの他、次の島及び地区に配置されています。

  カバリオ : 約400名
  カラバオ : 373名
  エルフレール : 35名
  マリベレス : 160名

しかしながらこれらの兵力の構成及び派出元についてはエルフレール以外は明らかではありません。

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( マニラ湾口防衛部隊配備位置関係 元画像 : 1954年の米軍地図より )

以上のことを総合すると、残りの242名については、吉村氏の 『戦艦武蔵』 での記述内容なども考慮すると、時期的には不明なものの、コレヒドールの他、カバリオ島、カラバオ島などにおける海岸砲台及び対空砲台の要員として相当数が組み込まれたとものと推定されます。


結局のところ、このマニラ湾口防衛部隊への配属を始めとして、「武蔵」 残留者756名は第5海軍補充部付のままで各部に割り当てられたと考えられますが、補充部における管理業務的なことは全て各沈没艦船ごとに行われていましたので、きちんとした記録などは残っておらず、今となっては具体的にどこにどの様に配置されたのかなど正確なことは不明です。


なおクラークフィールドに配属された316名は第315設営隊に配属されて飛行場建設に従事したとしているものがありますが、時期的に見て既にその時期ではなく、防衛部隊の中に割り当てられて防御陣地構築などに当たり、そして引き続きその後の防衛戦に従事したものと考えられます。

またエルフレール島守備隊は 「武蔵」 乗員35名だけで構成されていたとされ、昭和20年3月25日に総員玉砕 (自爆したとも言われている) していますが、それ以外の状況は全く不明です。

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posted by 桜と錨 at 17:39| Comment(6) | TrackBack(0) | 気ままに

桜と錨の独り言


旧海軍の電波探信儀について、主電源については公開されている旧海軍史料の中に各種電探のものが明記されているんですが ・・・・

某所で質問されている方、この方は確か以前も艦艇装備品の電源について同じ様な疑問を呈されていたかと。

そもそも艦艇とその装備品の電源がどういう関係にあるのかきちんと理解していれば、この類の疑問は出て来ないんですがねえ (^_^;

posted by 桜と錨 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月11日

写真集 『海気集』 公開


本家サイトの今週の更新は、ご来訪50万名達成記念の感謝企画第2弾として、『懐かしの艦影』 コーナーにおいて昭和36年に 「防衛友の会本部」 によって編纂・刊行された海上自衛隊写真集 『海気集』 を公開しました。

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     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/photo_cont.html
     http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/kaikishu/kaikishu.html

現在では海上幕僚監部や各地方総監部などからその都度その都度の写真などが公開され、またネット上でも多くのファンの方々から様々な写真がUPされておりますが、この種の普段の部隊の様子を紹介する纏まったものはまず見かけません。

( 私などからすれば、本来なら 「水交会」 などが一般に対する啓蒙活動の一つとして出すには最適なものと思いますが、現在の同会にはそのようなつもりはないのでしょうね ・・・・ (^_^; )

加えて、海上自衛隊創設初期の写真集というのも今日においては大変に珍しいものであり、その意味でも貴重なものと言えるでしょう。

写真集とはいっても通常の1ページ1葉のものではありませんで、いわゆる “パンフレット” 形式ですので、全頁を1つのPDFファイルとしました。

ただし元々の画質があまり良くありませんのでその点はご了解ください。

55年前の出版物ですが、出版元の 「防衛友の会本部」 というのも現在ではネット検索しても見当たりませんし、著作権の現状について確認するにも個人としては限界があります。

しかしながら、当時の海上自衛隊を紹介するこのような素晴らしい写真集がこのまま埋もれてしまうのは大変に勿体ないことと思い、私個人の独断と責任において公開する次第です。

したがいまして、現在の正当な著作権保有者からの連絡をいただきました場合には、削除などの措置をとらせていただくことが前提であることは申し上げるまでもありません。

posted by 桜と錨 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2016年09月10日

「武蔵」 生存者は隔離された? (続)


始めに 「武蔵」 沈没からの生存者の状況について少し整理してみましょう。

まず沈没からコレヒドール島到着までです。

10月24日
  1918 「武蔵」 沈没 (「清霜」 の記録では1940、「武蔵」 の記録では1935)
  1932 「浜風」 救助作業開始
  2026 「清霜」 救助作業開始 (2013 第2カッター降下)

10月25日
  0057 「清霜」 救助作業終了
  0120 「浜風」 救助作業終了

この時に収容された 「武蔵」 の生存者は両艦の戦闘詳報・戦時日誌などにより次のとおりとされています。

  「浜風」 : 准士官以上44名、下士官兵860名、計904名
  「清霜」 : 准士官以上31名、下士官兵468名 計499名
  合計  : 准士官以上75名、下士官兵1328名、計1403名

ただし、「武蔵」 は沈没した 「摩耶」 の乗員を収容しており、被害が酷くなった1830頃 「島風」 を横付けして移乗させていますが、応急関係員などはそのままとなっておりますので、沈没時に救助された人員にこれらの生存者が含まれていたかどうかは不明です。

  0140 「浜風」 コロン湾 (注1) に向かう
  0214 「清霜」 コロン湾に向かう

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( シブヤン海、コロン湾、マニラの位置関係 元画像 : Google Map より )

両駆逐艦長は協議の上、取り敢えず 「武蔵」 が損傷時に向かっていたコロン湾にそのまま向かい、同湾で上級司令部からの指示を待つことにしました。

その途中で第1遊撃部隊指揮官から両艦宛に次の命令が届きます。

1YB機密第242138番電
武蔵乗員を 「マニラ」 に輸送したる後 「コロン」 湾に回航妙高艦長の指揮を受け同艦及び日栄丸の警衛に任ずべし

この電報がいつ両艦に着信したのかは不明ですが、両艦はそのまま引き続きコロン湾に向かいます。

  1306 「清霜」 コロン湾着
  1455 「浜風」 コロン湾着

  1830 両艦コロン湾発、マニラに向かう

このコロン湾仮泊中に重傷者を在泊中の他艦に移したとするものもありますが、記録などはありませんので詳細は不明です。

コロン湾出港直前に 「浜風」 は第3南遣艦隊及び第31特別根拠地隊 (以下 「31特根」 という) へ次の電報を発信しています。

hamakaze_10251800den.jpg
( 「浜風」 の発信電報内容 元画像 : 防衛研究所所蔵資料より )

ここに示す 「武蔵」 生存者数は、准士官以上80名、下士官兵1343名の計1423名 となっており、先の救助作業直後の数とは多少異なっておりますが、コロン湾仮泊中に再確認した結果であり、少なくとも 「武蔵」 沈没時に救助した人員数 (便乗者等を含む) としてはこの値が最も正しいものと考えられます。 (注2)

10月26日
  0902 「浜風」 キャビテ軍港桟橋着
  0935 「清霜」 「武蔵」 乗員を 「浜風」 に移乗させた後マニラ港桟橋に横付けし補給
  1200 「浜風」 キャビテ発
  1303 「浜風」 コレヒドール着 「武蔵」 乗員退艦
  1446 「浜風」 コレヒドール発

先の電報にあった要収容負傷者についてはキャビテにおいて海軍病院に送られたのかどうかは不明です。

ここまでが 「武蔵」 の生存者がコレヒドール島に到着するまでの状況の概要です。

これを見る限りでは、「武蔵」 の生存者の収容先がコレヒドール島となったことは、両艦がマニラに到着するまでは、両艦はもちろん第1遊撃部隊司令部も知らなかったと言えるでしょう。

したがって、同島への収容は第3南遣艦隊あるいは31特根の都合による判断と考えるのが自然です。

Corregidor_map_01_mod_s.jpg
( 元画像 : 1944年の米軍地図より )

Corregidor_map_02_s.jpg
( コレヒドール島 元画像 : 1944年の米軍地図より )

ではなぜコレヒドール島だったのか?

これはお考えいただければすぐお判りのように、急に1400名もの人員を収容できるような施設はマニラの31特根といえどもそうそうあるわけではありません。 しかも後でお話しするように、「武蔵」 生存者1400名は取り敢えずは分散配置せずに一纏めにしておく必要があります。

当時はマニラ及びその周辺に海軍部隊の収容可能な施設はいくつかありましたが、マニラ防衛のために送り込まれる部隊はもちろん、多数の沈没艦船の乗員が所在しており、一挙に1400名もの人員を収容できる施設はそう簡単には確保できなかったと考えられます。

その一方で、コレヒドール島には19年9月までは31特根の僅かな部隊が配置されていたにすぎませんでしたが、9月に震洋隊1隊が配置されたのを皮切りとし、以後震洋隊、防空隊、設営隊などが次々と送り込まれることとなり、このための施設の増設が急ピッチで進められていました。 また、マニラ湾港防備強化のための更なる人員増加の必要性も見込まれていました。

このため 「武蔵」 生存者1400名がマニラに到着した時、彼等の処遇が決まるまでの取り敢えずの仮施設としても、コレヒドール島は当時最適な選択肢であったと考えられます。


さて次がその後の状況になります。

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(注1) : コロン湾 (Colon Bay) はパラワン諸島の北東端にあるブサンガ (Busuanga)、クリオン (Culion) 及びコロン (Colon) の3つの島で囲まれる天然の良港です。

ここコロン湾は連合艦隊の泊地・作業地として海軍部内ではよく知られたところで、この捷号作戦時でも使用していました。 実際、「武蔵」 生存者を運んだ 「浜風」 「清霜」 は再補給の後、損傷艦艇の応急修理のための派遣修理班90名をキャビテ軍港からこのコロン湾まで運んでおります。

colon_Bay_map_02_mod_s.jpg
( 元画像 : 1984年のONCシリーズより )

colon_Bay_map_03_mod_s.jpg
( 元画像 : 1960年の米軍地図より )


(注2) : 「武蔵」 の戦闘詳報によると、救助した 「摩耶」 の乗員を除き

   出撃時 : 准士官以上 112名 (その他便乗者等 7名)
        下士官兵・傭人 2287名 (その他便乗者等 11名)
        計  2399名 (その他便乗者等 18名)
   生存者 : 准士官以上 73名 (その他便乗者等 4名 3名は記録無し)
        下士官兵・傭人 1303名 (その他便乗者など 11名)
        計 1376名 (その他便乗者等 15名 3名は記録無し)

とされており、「浜風」 「清霜」 2隻による救助記録の合計より若干少なくなっております。

「武蔵」 戦闘詳報はコレヒドール島上陸以降、後になって書かれておりますので、もしかするとコロン湾あるいはマニラで移したとされる重傷者の数が入っていないのかとも考えられます。

また 「武蔵」 戦闘詳報の戦闘経過の中で 「島風」 への 「摩耶」 乗員移載の際に応急関係員は残したとされていますが、人員表の中にはこの数がありません。

したがって、便乗者等を除く 「武蔵」 乗員の正確な生存者の数については、結局のところ今日もなお確定的なものは無いと言えるでしょう。

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posted by 桜と錨 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと