2021年05月09日

『軍艦の発達』 リタイプ試製版


本家サイトにて、先日ご来訪70万名達成感謝記念企画の第2弾として公開しました昭和19年の呉海軍工廠造船部史料『軍艦の発達』のページで、リタイプ版を作ればこんな風になるのかな、というのものを作ってみたものを追加公開しました。

取り敢えずの試製のものですので、冒頭から第1編の始めの部分までだけのものです。

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しかしながら、文字起こししてリタイプすると格段に読みやすくなることがお判りいただけると思いますし、何よりもスキャナーで読み込んだものを白黒反転して整形とゴミ取りをするよりは、はるかに楽であることも確かです (^_^)

とは言いましても、リタイプ版は原本があってのものですので、原本は原本、これはこれで、ということになります。

ただ、原本にある艦型図などの図面は一般刊行物のものを手書きで写したもので、更にこれに説明を書き加えたりしております。 従いまして、比較のために元の引用書籍にある本来のものを並記しましたが、中には「参考書」として挙がっているリストからではその引用元が判らないものがあります。

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これらについては、直接の引用元の同じものではありませんが、代わりにジェーンやブラッセイなどの一般刊行物からのものを掲示しております。 もしこれらのものの引用元をお判りの方がおられましたらご教示ください。

それにしても、どなたか全編のリタイプ版を作られるか、あるいはスポンサーになっていただける方がおられれば ・・・・

でもどうなんでしょう、現在のような状況に至っても、こういうもののニーズはあるんでしょうかねえ?

posted by 桜と錨 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2021年05月07日

「海上警備隊」 について ・ 2


まずは、“行政組織”、即ちお役所としての 「海上警備隊」 についてから始めます。

海上警備隊が創設されたのは昭和27年4月26日です。

しかしながら、これは実際には “創設” というよりは、昭和23年5月1日に創設された海上保安庁について、昭和27年4月26日の法律第97号による 「海上保安庁法の一部を改正する法律」 によって、“海上保安庁の一組織として新たに置かれた” ものです。

ではなぜ、海上保安庁の一組織だったのでしょうか?

これは、戦後の “海軍の再建” というよりは新たな日本の海上防衛力の創設を目指す 「Y委員会」 により、昭和26年11月16日に 「海上保安予備隊設置要綱」 が採択されたことに端を発します。

この 「海上保安予備隊」 は本格的な 「Y機構」、つまり新海上防衛力整備のための取り敢えずの第1弾というものでした。

( 海上自衛隊の創設の基礎作りに多大な貢献をした 「Y委員会」 については、このあともう少し詳しくその経緯などをお話しすることにしますので、取り敢えずはその説明はここでは省略します。)

( 因みに、Y委員会やY機構の 「Y」 というのは 「陸・海・空軍」 を意味する隠語としてのアルファベットの 「A、B、C」 ではよろしくないということから、アルファベットの最後から逆に 「Z、Y、X」 の 「Y] から採ったものです。)

即ち、朝鮮動乱を受けてのGHQの指示に基づいて昭和25年8月10日に創設された 「警察予備隊」 と横並びのものを目指す、即ち “警察予備隊の海上版” と言えるものでした。

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これは、GHQ及び米極東海軍司令部が、戦後の日本に自前の防衛力を持たせることを急いだことと、大戦後に大量に余剰となってきた艦艇の始末、というか貸与先を急いでいたことの後押しを受けたものでもあります。

ところが、そのY委員会の動きを知った海上保安庁は、縄張りを摂られるという危機意識と、自己の立場・権限の確保・拡大という役人的発想により、自らがその一組織としての 「海上警備隊」 の新設を言い出したものです。

( 因みに、GHQがY委員会が名付けた 「海上保安予備隊」 では英語表記で “Coast Sequrity Force” となることから “Maritime Safty Force” たる 「海上警備隊」 とするように求めた (実質としては指示) ことからこの名称になりました。)

もちろんこれには、勢力的にはまだまだ弱小である海上保安庁としては、新設する組織はいざという場合に自前の警備救難勢力の補完・予備として考えていた、ということもあります。

したがって、これらの思惑があって海上保安庁の案では新設する 「海上警備隊」 は “警備救難監が ・・・ (中略) ・・・ 統轄する” とされていました。 まあ、縄張り意識の強い官僚の考えることとしては当然のことではあったわけですが。

しかしながら、申し上げるまでもなく、海上保安と海上防衛とではその役割が全く異質なものですので、Y委員会としては “警備救難監と調整する” という文言に修正することを絶対条件 にして、取り敢えず海上保安庁案に乗っかってともかく暫定的な 「行政組織」 の新設を目指すことにしました。

そしてこれを後押ししたのがGHQ及び米極東海軍司令部で、当然ながら米国は海上保安 (Coast Guard) と海上防衛 (Navy) とは別のものと理解できておりますので、このY委員会の修正案を受け入れいるように海上保安庁に求めたのです。

その結果として海上保安庁としては当時のGHQの要求を拒否するなど不可能なことですので、Y委員会の修正案どおりとなり、海上保安庁の一組織ではあるものの、本来業務の部署と並列する形での 「海上警備隊」 が新設されました。


ところが、です。

この時既に警察予備隊と海上警備隊を一つに纏める 「保安庁」 設置の構想が進んでいたことには注目する必要があるでしょう。

したがって、新設された海上警備隊は、いかに取り敢えずの暫定的なものであり、単に行政組織としての外向けの実績づくりのためのものでしかなかったのか、と言うことです。

実際、その4月26日に新設した組織の中身については、4月30日になって運輸省令第22号により 「海上警備隊組織規程」 として制定され、しかもこれは施行日を創設の4月26日に遡るという有様でした。

つまり、4月26日の海上警備隊新設日には、その新設組織のトップたる 「海上警備総監」 に海上保安庁次官であった官僚の山崎小五郎たった一人のみが横滑りで人事発令されていたのです。

そして4月30日の組織規程に基づいて順次人事発令がなされるとともに、5月1日になって当初は 「海上保安官」 であった身分を特別職国家公務員たる 「海上警備官」 に任命替えすることになりました。

そこで改めて6月16日になって日比谷公園で海上警備隊披露式が (海上警備隊本部そのものは旧海軍省跡の建物に海上保安庁と同居)、同18日には旧海軍水雷学校跡に置かれた 「横須賀地方監部」 の開庁式が行わることになりました。

更には、6月13日になって海上保安庁達第21号による 「海上警備隊の運営に関する達」 が、同16日に法律第197号による 「海上警備隊の職員の給与等に関する法律」、同30日に運輸省令第38号による 「海上警備官服制」 、と五月雨式に後追いで制定されるというという始末でした。

いかにバタバタとした間に合わせ的かつ暫定的なものであったのか、ということが明らかでしょう。

加えて7月31日に海上保安庁達第29号により 「海上警備隊職員服務規律に関する達」 が制定されました ・・・・ がしかし、

この同じ 7月31日には、国会で法律第265号による「保安庁法」及び政令第304号により 「保安庁法施行令」 が成立 しており、その翌日の8月1日に施行、警察予備隊と海上警備隊をそれぞれ保安隊及び警備隊として一つに纏める 「保安庁」 が創設されたのです。

この 「保安庁法」 は5月10日に国会へ法案が提出され、7月1日開庁を目指したものだったのですが、折しも国会では破防法の審議などで揉めてしまい、結局7月31日制定、8月1日施行となってしまいました。

それでも 海上警備隊新設から僅か3ヶ月に過ぎない ものであることには注目に値します。

この 「保安庁」 が後に防衛庁となるもので、まさに海上自衛隊の前身というならばこの時の 「警備隊」 の創設の方が当然ながら遥かに相応しいと言えるものです。

まさに 「海上警備隊」 というのは “単なる行政組織としての” 暫定的かつ間に合わせのものであったことが明白でしょう。

そしてこれはあまり知られていないことなのですが、実は 同じ7月31日に法律第267号の 「海上公安局法」 が成立 しています。

この法律が施行されると、海上保安庁の警備救難部は保安庁外局の「海上公安局」となり、その他の部署は運輸省その他に分散されてしまい、要するにいつ海上保安庁が解体されてもおかしくない状況となってしまったのです。

ただし、その施行日については後令とされましたので、海上保安庁としては保安庁設置を黙って認め、その代償としてこの海上公安局法の施行阻止を目指す以外にはなかったのです。

もしこれが施行されると、海上保安庁としては立場が逆転して、まさに “軒先を貸して母屋を取られる” ということになります。

もちろん、警備隊としても、その外局とは言っても平時の警備救難業務などが付加されたのでは邪魔になるしかなく、この 「海上公安局」 には反対の立場ですから、保安庁 ・ 警備隊の創設の方はすんなりと行ったと言えるのです。

その結果として 「海上公安局法」 は成立しても施行されないままの状態となり、結局、防衛庁が創設された昭和29年7月1日に至って廃止となりました。


ただ、確かに昭和27年に “海上保安庁の一組織” としての 「海上警備隊」 “新設” というステップが1つあったことは、当時の政治 (特に野党) やマスコミ、そして一般国民に対する地ならしとしては、その意味と価値があったかもしれません。

だからと言って、これをもって昭和27年4月26日の海上警備隊新設の日を 「海上自衛隊の日」 とするなどは、単なる官僚や制服を着た能吏達以外にとっては “それ何?” に過ぎませんが (^_^)

(続く)
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前 : 「海上警備隊」 について
     http://navgunschl.sblo.jp/article/188629211.html

posted by 桜と錨 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代戦のこと

2021年05月06日

小春2歳の誕生日祝い


我が家のニャンコ、三毛猫の小春の2歳の誕生日祝いです。

一昨年に野良を我が家に迎えたときに、保護センターで “大体4ヶ月くらいでしょう” ということでしたので、勝手に5月5日のこどもの日を誕生日にしたのですが、昨日はちょっとバタバタしてしまい、今日がお祝いです。

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小春も何となく自分のお祝いだという感じがするのか、食卓に上がってケーキを舐めにきました。

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全く外に出ない (出せない ) 家猫ですが、それでも元気に育っています。

posted by 桜と錨 at 21:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに

2021年05月05日

江田島の八方園 ・ 補


大正8年に大講堂が建設された時の八方園斜面の参道跡との位置関係が判る図面が出てきました。

少々写りが悪いのですが、大正2年の計画図で、大講堂建設のために八方園斜面の元参道側がガッポリと削られましたが、参道跡は現在の太平洋池のある付近よりもう少し生徒館寄りの南側に伸びていたようです。

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2021年05月03日

江田島の八方園 ・ 後


江田島の八方園というと、「八方園神社」 と 「方位盤」 が有名です。 しかしながら、この2つが出来たのは海軍兵学校が江田島に移転してずっと後の昭和に入ってからです。

「八方園神社」 は、昭和3年になって昭和天皇の御大典記念事業として、たまたま伊勢神宮における遷宮祭で不用となった檜材をもって建立されたもので、場所は元の御鷹神社の跡とされています。

ご神体は天照大神を祭るものではありますが、宗教的な意味合いは全くなく、生徒の自主的な参拝によって天皇陛下と国家に対する “忠義と孝行” を誓うところであったとされています。

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( 往時の八方園神社 )

しかしながら、終戦直後の連邦軍進駐前に自らの手で取り壊してしまいました。 そして昭和42年になって、この神社跡に 「海軍兵学校の碑」 が建てられております。

下の写真は昭和45年の防大夏期定期訓練においての記念写真ですが、建ってから3年のまだ新しい時のものです。

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そして、この 「八方園神社」 と並び知られているのが 「方位盤」 です。 兵学校生徒が、神社参拝の後、この方位盤によって各自それぞれの故郷の方向を向いて思いをはせたものとされています。

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ただし、この 「方位盤」 が設置されたのは、実に昭和16年のことです。

またその脇には、各自が帰省の折に持ち帰った故郷の石を集めた場所が設けられておりました。

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これらのものが戦後どの様な状態であったのかは不明ですが、現在の方位盤とその周囲に置かれている小石などは戦後新たに設置されたもので、残念ながら当時のものとは別のものです。

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( 平成12年当時の第1術科学校副官撮影のもの )

その他、この八方園には昭和16年に 「方位盤」 と共に 「皇居遥拝所」 が設けられたとされていますが、これはどの位置にどの様なものがあったのかは不詳です。


以上、江田島の八方園について思いつくままに綴りましたが、ご来訪の皆さんの何某かの参考になれば幸いです。

(終り)
posted by 桜と錨 at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2021年05月02日

江田島の八方園 ・ 前


どうも海自OBでもこの江田島の八方園についてあまり良く知らない人がいるようですので少し。


明治21年に海軍兵学校が築地から移転する時に、これに先立って明治19年6月に適地調査、というより既に江田島に内定の上での用地の測量を行っております。

この用地測量時の当時の江田島の予定地の姿が有名な絵として残されております。

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( 因みに、左下の川沿いにある比較的大きな建物が当時の村役場です。)

この絵の中心部分の拡大したものが下図ですが、小高い丘のところがその後八方園となったところで、当時ここには 「御鷹神社」 が祭られており、ここに続く参道が下の平地から丘に上るところまで直線的に設けられておりました。

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この 「御鷹神社」 と言いますのは、古鷹山由来の伝説に基づいて山頂付近に祭られていたものですが、往来する船舶が航海安全祈願のために参拝するのは大変だということで、ここへ移転したものとされています。 ただし、元々の山頂付近に建立されたとする神社の正確な場所や時期、そしてここへの移転時期などは不詳です。

そして早くも明治19年11月には建設工事が開始されましたが、建設予定地は元々干潟であったところが農耕地となっており、土壌的には軟弱ですのでそのままでは兵学校の敷地としては使えません。

このため、海岸線に護岸を築き、農耕地であったところを古鷹山の裾野を削った土砂を盛って硬く整地しなければなりませんので、まずこれから手を付ける必要がありました。

これによって、明治21年4月には取り敢えずの敷地と、物理、水雷、運用の3講堂と重砲台、それに官舎などが完成しております。

この土地改良の工事もあって、赤レンガ、即ち生徒館はまだ出来ておりませんので、購入した古い汽船の 「東京丸」 を神戸で改修の上回航して護岸近くに係留し、これを生徒の生活・学習などのための生徒学習船として使うこととして、明治21年8月に正式に江田島に移転しております。

( なぜ生徒館完成を待って移転しなかったのかなどについては、本ブログの 『兵学校の江田島移転と「東京丸」』 の中で、「世界の艦船」 の平成31年9月号の拙稿 『呉鎮130周年 呉基地と江田島教育の歩み』 の補遺として述べておりますので、これをご参照ください。)

この兵学校移転時の状況は下の写真の通りであったとされています。

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( 因みに、有名な 「キサキ鼻」 というのは中央奥の江田内に突き出している小さな岬のことです。)

これをご覧いただいてお判りのように、移転工事において背後に続く峰は掘削されましたが、何故かこの御鷹神社の跡地はそのまま小山として残されました。

そして、丘の上に置かれた 「御鷹神社」 は撤去されて、現在も続く 「江田島八幡宮」 (当時はまだ 「江田島八幡神社」 と呼ばれていました) に預けられ、元の境内であったところは兵学校の庭園となったとされています。 ただし、庭とは言っても実際には単なる更地の平地であったようですが。

( なお余談ですが、江田島八幡神社に預けられた御鷹神社は、その後近くの中郷区に移転しましたが例大祭の夜に出火して焼失、再び江田島八幡神社に合祀されました。 そしてやっと平成10年になって改めてこの八幡神社境内に 「古鷹神社」 として再建され、現在に至っています。)

上の写真の拡大図ですが、小山の斜面の参道跡はそのまま残され、その途中にあった松の大木もそのままのようです。

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この明治21年移転当時の状況 (生徒館は予定地) を19年の測量図と重ね合わせたものが残されており、当該部分を示すと下のとおりです。

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元の地形図には 「御鷹神社」 も描かれており、特にここで注意していただきたいのは、当時からここを 「八方園」 と記していることです。

ただしこの 「八方園」 というのが、神社撤去後の庭園としてつけられた名称なのか、それとも神社の境内をそう呼んでいたのかなどは不詳です。

明治26年に生徒館が完成した後の明治35年の兵学校配置図でも、この小山上の平地と斜面の参道跡はそのままです。

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この斜面の参道跡が無くなったのは、大正6年に大講堂が建てられた時です。 大講堂建設のために明治45年から工事が始まり、これに伴ってこの参道跡の部分が削られ、八方園に至る道は現在も残る小山に沿ってぐるりと回る形となっております。

大正8年の兵学校配置図で比較すると、元々の斜面の参道跡はその後大講堂脇に作られた 「太平洋池」 のあたりに伸びていたと思われます。

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長くなりましたので一旦ここで区切って、続きは後程。

(続く)

posted by 桜と錨 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2021年04月30日

「海上警備隊」 について


先のブログのとおり、昭和27年4月26日に 「海上警備隊」 が創設され、この海上警備隊を行政組織的に見て現在に続く海上自衛隊の前身とし、これをもってこの日を 「海上自衛隊の日」 と呼ぶようにしたようです。

ではその 「海上警備隊」 とはどのようなものだったのか? その創設日を 「海上自衛隊の日」 と呼ぶに相応しいものであったのでしょうか?

そして、ご来訪の皆さん方なら 「海上自衛隊の日」 と聞いてまずどのようなことを思い浮かべられるでしょうか?

現在のところ、海上自衛隊の歴史については、海自そのものの公的なものとしては 『海上自衛隊25年史』 があり、また創設に至る経緯などについては 「(財)水交会」 がかつて発行した鈴木総兵衛氏の 『聞書・海上自衛隊史話』 がもっとも詳しいと思います。

前者は各年代ごとの編成や教育・訓練などの項目に分けて記述されておりますが、その別冊である 『資料編』 も併せていまだに一般には公開されておりません。

JMSDF_History25_cover_s.jpg  JMSDF_History25_2_cover_s.jpg

また、後者は経験者の談話などをいわゆる物語風に纏めたもので、正史とはとても言えるものではありません。

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したがって、旧海軍の解体から海上自衛隊の創設に至る時系列的なことについてキチンと整理されたものは無いといえるでしょう。

しかしながら、この時系列的な経緯を踏まえた上で、それぞれの出来事などについて論じて行かないと、特にこの 「海上警備隊」 というものについて、単に一行政組織だけのことで見ていくと誤った認識を持ってしまいます。

例えば、大戦中に主として内海に米軍が敷設した機雷の除去、すなわち航路啓開についての経緯の中でではどのようだったのか? 保有する艦船は? 部隊の編成などは? 掲げる旗は? 教育訓練は? 隊員の処遇は? などなど、これらについて 「海上警備隊」 とはこうだったと言える方がどれだけおられるのでしょうか。

その上で、本当に昭和27年4月26日が 「海上自衛隊の日」 とするに最も相応しいといえるのでしょうか?


・・・・ で、少しこの 「海上警備隊」 に関連することをお話しして行きたいと思っておりますが、これもどれだけかかるかは ・・・・

(続く)
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次 : 「海上警備隊」 について ・ 2
     http://navgunschl.sblo.jp/article/188649826.html

posted by 桜と錨 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代戦のこと

2021年04月29日

4月26日が 「海上自衛隊の日」 ?


新しいHDDへのコピーは三日三晩かかりまして、やっと何とか常用にできるところまできました。

ところで ・・・・ 全く興味も関心も無かったのですが ・・・・ いつの間にか海上自衛隊は昭和27年4月26日の海上警備隊創設の日を 「海上自衛隊の日」 と呼ぶようにしたとか。

う〜ん、私からすれば、その前後の状況と経緯、そして海上警備隊という組織そのものを考えるならば、「海上自衛隊の日」 とするには全く相応しいとは思いませんけどねえ。

また海幕の “制服を着た能吏” の誰かがウケ狙いで言い出したのでしょうが ・・・・

どなたか “こういう理由で” とお答えになれる方はおられますでしょうか ?

posted by 桜と錨 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

2021年04月25日

広島の参議院議員補欠選挙


今日はあのとんでもない人物であった河井案里氏の有罪判決に伴う失職による補欠の選挙日ですが ・・・・ どう見てもこれという候補者はおりません。 それに残りの任期は約半年。

どうしますかねえ ・・・・ ? (^_^;

posted by 桜と錨 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに

6TB の HDD 導入


PC のデータ保管に現在使っているのは 4TB と 2TB の外付け HDD で、4TB を常用、古い方の 2TB を重要データの保存用にしていますが、このご時世、4TB でも残りがあまり無くなってきましたので、新しく 6TB の外付け HDD を買いまして、これを常用にすべく現在データーをコピー中です。

外付け HDD は、昔からバッファローかI/Oデータのものを使っていますが、今回もバッファローのものです。
6TB_HDD_01_s.jpg

ですが ・・・・ PC も HDD もそれほど高級機は必要としませんし、何しろ貧乏人には手がでませんので ・・・・

2晩経ってもまだ6割少々しかコピーが進んでいません (^_^;

コピーが完了しましたら、これを機会に、溜まりに溜まったデータを少し整理したいと思っています。

スキャナーで読み込んでディジタル化したものを綺麗にするためのものや物書き途中で作成したもの、などなどの作業ファイルが沢山溜まっています。

そして保存場所が沢山のフォルダーに散りじりになっていたり、その時々で使うのに便利なように同じファイルが複数の箇所に置いたりしたものがあったりしますので、これらももっと使いやすいように纏めたいと思っているのですが ・・・・


元来が私は完全な左利きですので、紙に手書きで文字を書くのが苦手というか面倒くさい (そもそも日本語は左利きには向いていません) ので、早くからまずはワープロ、次いでパソコンにしました。 そして初めて PC 用の外付け HDD を購入したのはもう30年以上前のことです。

当時はまだパソコンはフロッピー全盛の時代でしたが、40MB の HDD を大枚をはたいて購入しました。 文書などはこれ1つで半永久的に書き貯めることができるくらいの容量だ、と思ったものです。

しかしながら、ディジタル化とネットの進歩は早く、しかも手持ちの紙媒体の資料やアルバムの写真などもどんどんディジタル保存し始めましたので、あっという間に足りなくなって、直ぐに次々と容量の大きなものに買い替えてきたのですが ・・・・ 今ではもう当時の10万倍のものでも足りなくなってきました。

posted by 桜と錨 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 気ままに